小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

20 破天の剣(島津家久)天野 純希(2012)

【あらすじ】

 島津貴久の四男として生まれた家久は、兄3人の武将らしい性格と反対に、口下手で何をやっても飽きやすい性格で字も満足に書けない。母が兄3人とは違うこともあり、軽んじて見られていた。しかし島津家中興の立役者、祖父忠良はそんな家久を「軍法戦術に妙を得たり」と見ていた。戦術を語り始めるとロは止まらず、皆も驚くほどの意見を述べ、15歳の初陣では敵将を討ち取る手柄を立てる。

 

 長兄の義久家督を継ぐと、島津家悲願の三州(薩摩、大隅、日向)制覇を成し遂げるために、兄弟で力を合わせて隣国を攻めて行く。次兄の義弘が先頭に立ち軍勢を鼓舞し、三男の歳久は智謀で計略を巡らす。そんな中家久はマイペースに周囲の地形などを自ら見ると、いつの間にか作戦を立て、総大将の義久が試しに実行すると、ことごとく的中して勝利を収めていく。

 

 そして遂に名門大友宗麟と直接対決することになる。大友家は6万もの軍勢を動員して攻めてくる。対して島津軍は約4万。家久は耳川を利用して大規模な「釣り野伏せ」を仕込んでいた。次兄の義弘と連携して大友の大軍を見事に引き込み、軍勢が伸び切った所で伏兵を側面から出現させて包囲し、相手に壊滅的な打撃を与える。この敗戦によって大友家の家運は急激に衰退し、島津家は三州制覇を成し遂げた

 

 鮮やかな勝利を得たことで、島津家の野望は三州から更に拡大する。肥後の国人達も島澤家傘下に入り、肥前を本拠とする龍造寺家と雌雄を決することになる。家久は湿地帯の沖田畷に目を付け、そこに相手軍を引き込むことができれば勝つことができると踏んだ。島津軍5千にたいして龍造寺軍は6万で砦に押し寄せてくる。狭路で相手方も一斉に攻撃できないが、それでも入れ代わり新しい戦力が攻撃してきて、島津方の防御も限界に近づいて来た。そこへ家久が新たな戦力を出して敵将龍造寺隆を戦場に引き出し、またも見事な 「釣り野伏せ」で敵将を包囲し、ついには敵将を打ち取る完勝を収める。

 

  

 *島津家中興の祖で、孫の四兄弟の資質を見抜いた「日新公」島津忠良ウィキペディアより)

 

 こうなると勢いは止まらず、島津軍は九州制覇を目指して大友領に攻め込む。しかし大友家や龍造寺家の家宰、鍋島直茂は豊臣家の軍門に下り、共同して島津家を包囲しようとしていた。秀吉は連合軍を派遣して対抗するも、ここでも家久の釣り野伏が功を奏し、長曾我部信親十河存保など、名だたる武将が敗死することになる。

 

 これを見た秀吉は、弟の秀長に15万を率いさせて日向から、そして秀吉本軍も肥後から10万の軍勢で攻め込む。家久は薩摩国全体を使った「釣り野伏」で対抗しようとするが、家老の伊集院忠棟が豊臣家と内通し、戦う条件は崩れてしまった。島津義久は出家姿となって秀吉に降伏する。

 

 和睦後の豊臣と島津の懇親の場。秀吉の軍師黒田官兵衛が家久に、座興として豊臣軍に立ち向かう方策を問うに、家久は国そのもの、九州そのものを「釣り野伏」とした戦術を披露する。それを聞いて恐れを抱く黒田官兵衛

 

 間もなく家久は毒殺される。家久の思いは、単純に兄たちに認められたいというものだった。

 

*戦国末期の九州勢力図と主な戦い(本作品より)

 

【あらすじ】

 島津四兄弟と言うと、長男で当主の義久と、次男で次の当主となる義弘が有名だが、この2人を描いた作品は朝鮮出兵関ヶ原の引き口や、その後の徳川家との交渉が主題となり、島津家側から見た九州侵攻の戦いを描く作品がなく、物足りなく思っていた。そこへ関ヶ原の前に亡くなった、末弟の家久を主人公とした本作品が発刊された。

 あらすじでは戦闘を中心に描いたが、祖父や父、そして兄たちとの交流、また妻の「男勝りの」葉との馴れ初めなども、細やかに描いている。そんな中、敗北を覚悟した敵将から「妾腹の弟は、所詮最後は裏切られる」と言わしめていて、家久に対する暗い予感を持たせている。

 しかし家久は楽天家であり、戦術以外は全く頭が回らない性格の持ち主。そのために真面目な義弘からは見捨てられるが、長兄義久や三男の歳久からは一目置かれるようになる。家久も戦術しか兄たちに尽くすことができるものがない、いう気持ちで、戦闘に没頭し、戦闘を待ちわびる。

 本作品では家久は2回上洛している。実際に上洛したときに日記をつけて現在も残っているが、仮名だらけで誤字だらけとして描いているが、それだと日記をつけること自体どうかと思われるが、それでも筆まめだった坂本龍馬の逸話を思い出させる。

 その中で長篠の戦いに対して興味を持ち、自ら「ジオラマ」を作って戦場を再現して羽柴秀吉に感心される様子などは、戦術以外の日常生活は無関心だった「坂の上の雲」の主人公、海軍参謀秋山真之を連想させる。そして「妾腹の弟」が最後に天下人から殺される設定は、源頼朝に殺害された義経そのものである

 実際の死因は判明しない。豊臣方だけでなく、島津家側の毒殺という噂もあるし、単なる病死とも言われている。

 兄たちに認められたいと願った家久だか、遺児の豊久は、父よりも伯父義弘の武将らしさに憧れて成長する。そして父の死から13年後の関ヶ原の戦いの退却戦で、義弘の身代わりとなって壮絶な討ち死にを遂げた

 

nmukkun.hatenablog.com

*「釣り野伏」家久の最高傑作と言える戸次川の戦いで、豊臣家先陣を担った長曾我部信親らが戦死してしまいます。