小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

6-1 重耳 ①(晋:BC 696~BC 628)(1993)

【あらすじ】

 曲沃を支配するは、晋王から分家された祖父が統一君主の座を狙っていたが、縄侯が先んじて周王から君主に認定されてしまい、不満が高じていた。称は勢力の拡大を模索すると、北方の狐氏が交誼を求め、2人の娘を称の子詭諸(きしょ)の嫁として送り届ける。占いによると、このうち1人が天下に号令する人物になると言う。

 

 1人の娘が重耳 (ちょうじ)を産み、その前にもう1人が申生を産んだ。称は氏長の狐突に、申生を教育するように頼む。狐突は当初重耳の師となるつもりだったが申生に付いて、重耳には自身の子を仕えさせることにした。

 

 周王室の疑念を払拭するため称が王都に送り込んだ士蔿(しい)は、半年後に周の動向を記した報告書を携えて戻ってきた。しかし報告書が余りに見事なため称はかえって危ぶみ、秘かに不鄭(ひてい)趙公明・趙夙(ちょうしゅく)の親子を王都へ送り込んだ。果たして士蔿は権力闘争に巻き込まれて自由が効かず、危ういところで命を落とすところだった。

 

 東方では斉に桓公が現われ南では楚が勢力を拡大し、曲沃の周辺もあわただしい。重耳は王子脆諸の子だが、才気闊達な兄の申生と弟の夷吾に挟まれ、目立たない存在だった。周囲の家臣たちは真っ先に申生に仕えることを望み、重耳に仕えるのは二の次と思われる中、趙公明の末子・趙衰(ちょうさい)は重耳に仕えることにする。

 

  *重耳(ウィキペディア

 

 称は晋を統一するために、本家筋にあたるを攻めることを決意し、幸運をもたらしそうだと重耳を連れて行った。冬の翼城は氷の城のように堅く攻めあぐねていたが、重耳の部隊が突破口を見つけ、遂に難攻不落の翼城を落した。BC 679年、正式に称が晋の統一を果たし、重耳の祖父の称は満ち足りた思いで天寿を全うする。

 

 称のあと献公として即位した父詭諸の下で、重耳は王子としての役割を果敢に果たしていく。王都では「子頽(したい)の乱」が起き重耳は出兵するが、この戦いの前に奇妙な占いがでた。それはこの戦いに勝つことは不吉を招くと言い、その者は戦いで得た捕虜にいると言うた。果たして捕虜の中に詭諸の愛妾となる驪姫(りき)がいた。驪姫は脆諸を取り込んで正夫人となったがそれで満足せず、自ら産んだ子を太子したいとの願望を抱くようになった。

 

 そんな驪姫に優施という役者が近づいた。優施は実は翼の公子で、復讐で晋を滅ぼすために驪姫に近づいていた。驪姫は優施に取り込まれて詭諸に甘言で誘い、公子たちを中央から辺境に遠ざけようと工作する。評判の良い重耳はという最も遠い場所に、弟の夷吾もその次に遠い領地へと飛ばされた。申生も既に首都ではなくなっている曲沃へと追いやられてしまった。

 

 

 

  *父の詭諸(献公:ウィキペディア

 

【感想】

 19年に及ぶ放浪生活を経験し、苦難の末に晋の君主となると「春秋五覇」の1人に教えられるまでになった文公重耳)を描いた作品。その物語は祖父の武公)、更にその祖父から説き起こされる。 称の祖父は君主の子でありながら分家に出されてしまい、再統一して晋の君主となることを念じて亡くなった。そんな思いを知る孫の称は、策略を尽くして晋の再統一を成し遂げるが、その無理が祟ったのか、悪運が子孫たちに降りかかってしまう。

 重耳の父脆諸献公)も晋の勢力を拡大していくが、そこに「妖婦」驪姫が登場。称が滅ぼした翼の公子である優施が近づいて謀を巡らし、古代中国「あるある」の内紛につながっていく。その内紛に巻き込まれる重耳だが、本作品では成人になる前は兄申生と弟夷吾に挟まれ、目立たない存在とした。後に悲劇に見舞われる兄弟だが、重耳はその才能を内に秘めて、時が来るまでひたすら力を蓄えていく。

 重耳は次第に才能と人柄より周囲から一目置かれ、砥いでいた牙が徐々に外に現れていく。しかし「敵」から見ると、真っ先に葬り去らなくてはならない危険な存在だった。父脆諸の愛妾となった驪姫が愛人の優腕に操られて、再統一された晋に内乱を招く。その手始めは、ライバルとなる公子たちを遠隔地に飛ばすこと。

 時代は下って始皇帝崩御した時。宦官の趙高が権勢を私(わたくし)にしようとして、始皇帝が後継者に指名した遠方にいる扶蘇宛ての遺詔を握りつぶし、死を賜る詔が偽造され扶蘇が自殺した故事に重なる。対して重耳は首都から届く情報を信用せず、命からがら逃げ出すことで、思わぬ人生を歩むことになる。

 

   *驪姫(ウィキペディア

 

 主に名参謀や家臣を主人公に据える宮城谷昌光だが、本作品では珍しく王そのものを描いた。現時点で王を主人公にしたのは、時代は下って前漢の高祖「劉邦」と、後漢の祖「光武帝」だが、ともに生まれながらの王ではない。草莽から生まれた人物が人望を放つことで人が集り、やがては勢力を結集して建国する物語。

 重耳は王子として生まれたが、やはり生まれながらの王ではない。劉邦光武帝も及ばない苦難が、前途に待ち構えていた。

 

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5 管仲(斉:BC 700頃~BC 645)(2003)

【あらすじ】

 地方で富裕だった管仲の実家は、父が亡くなると長兄が放蕩三昧となり、すぐに没落の危機に瀕する。管仲は自ら身を立てるために、わずかな資金で洛陽へと渡った。

 

 その頃洛陽には鮑叔がいた。斉国の政治家の子に生れ、その俊英振りは周囲からも認められていた。しかし鮑叔は、管仲の簡潔な言葉の裏に潜む知識に圧倒される。長兄が急死して借金が残り、許嫁とも別れる不運も重なり、人生に絶望する管仲の姿を見て、鮑叔は次第に管仲に肩入れしていく。

 

 鮑叔は周囲から好かれる人柄を持ち、の国では太子から寵愛を受けた。そこで鮑叔は管仲を推薦するも、かつて王に叛乱した管叔鮮の子孫ではないかと疑われてしまう。また戦争に巻き込まれると類い希な戦術眼を見せるも、間諜と疑われて拷問を受けるなど誤解され、やがて仕官を諦めて商人への道を模索する。

 

 しかし管仲は商人に向かず、鮑叔の伝手で太公望が建国した隣国のを目指す。最後に鮑叔への恩義から鄭における農業政策の問題点をまとめると、その突出した内容が太子の目に留まる。慌てて管仲を手元に置こうとするが、時機は既に逸していた。斉へ赴くと、鮑叔は君主僖公(きこう)に自らを差し置いて管仲を推薦し、ようやく管仲の仕官が叶った。

 

 僖公には長男の諸兒がいたが、次男の公子糾が次期国王と目され、管仲はその側を仕えることになる。斉国の安定を考えて、鮑叔は召忽管仲の3人で公子糾を支えようと提案するが、管仲は3男の小白も人望があると考え、結局鮑叔か小白に仕えることとする。老齢の僖公が亡くなると、国外にいた公子糾を尻目に長男の諸兒襄公として即位した。その性格は狭隘で気に入らない人間を次々と誅殺したため、人心は離反していく。

 

  管仲ウィキペディア

 

 悪政をほこった襄公を従兄弟の公孫無知が暗殺し、更に継承権のある弟の公子糾と小白の暗殺を企む。2人は命からがら亡命するが、公孫無知もすぐに暗殺される。その報を聞いた公子糾は斉に戻ろうとするが、鮑叔が側にいる弟の小白が、準備も整えて圧倒的な兵力も擁していた。管仲は鮑叔を敵に回してでも小白を殺害しようと決意する

 

 管仲が心眼で放った矢は奇跡的に小白を捉えたが、その矢は逸れて腹の帯に当たり、身体に傷をつけることは無かった。圧倒的な戦力を有する小白の軍は、立て直して公子糾を駆逐する。矢で捉えたとした管仲の確信は油断を招き、敵将の死を確認することを怠ることで敗戦を招いてしまう。

 

 公子糾は鮑叔の判断により、命を絶った。かつて仲間の召忽と管仲は鮑叔の前に連れ出される。召忽は糾を追って自死したが、管仲は鮑叔の強い要請により、桓公となった小白に登用される。宰相になった管仲は「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」。内治を優先して国を富ませ、その名声は周辺諸国に伝わった。桓公周王朝に替わって周辺諸国を治めることになり、春秋時代における最初の覇者と呼ばれた。

 

   *鮑叔(ウィキペディア



 

 

【感想】

 周王朝の権威が衰退して、春秋時代となった初期の頃の話。「管鮑の交わり」として有名な管仲と鮑叔のコンビが、中原の諸国を制する「覇王」となった斉の桓公を支えた物語。ちなみに名前で管仲は次男、鮑叔は三男と推測できる。

 しかし作者があとがきで書いているとおり、管仲は40歳になるまでの記録はなく、多分に想像力を駆使して描いた。そこで管仲を、能力は抜きん出ているが運に恵まれない人物として、不遇をかこっている若者と設定した。対して鮑叔は人望も能力も周囲から認められていくが、その度に敬服する管仲を推薦する役割を担った。

 管仲と鮑叔が対峙する糾と小白の戦いでは、鮑叔が万全の準備をして、一事が万事管仲よりも優れた人物に見えてしまう。「強兵」の前に「富国」があることは鮑叔も承知していて、管仲がいなくても桓公を支え、覇王とすることができたろうに。とは言え管仲は宰相として「富国強兵」を成し遂げて、春秋時代では随一ともいえる宰相の名声を得ることができた。この「富国強兵」の斉の国から、後に戦術だけでなく内治や外交にも踏み込んだ「孫子の兵法」の孫武が生まれた。

 端的に言えば、管仲は類い希な知性を有しているが、時に思索の迷路に入り込む内向的な性格を内包している。例えば後の孔子らのように、学者としての道が相応しかったかもしれない。対して鮑叔は現実社会に生きて、渾身これ政治家の性格を有していた。その鮑叔が管仲に捧げる無償の愛情は余りに一方的であり、(本作品を読む限りでは)単に「管鮑の交わり」という言葉では片付けられない。

 

dantandho.hatenadiary.com

*こちらは暖淡堂さんによる「管鮑の交わり」のブログです。

 

 青年の管仲は、許婚の季燕に「3年待ってくれ」と頼むが、結局は季燕に見捨てられて絶望する。管仲は悶々とするが、季燕にも年齢的な、そして家の事情もある。管仲の兄から婚約破棄を通告される中で、3年経てば適齢期も過ぎてしまう不安もある。そのことを考慮できない管仲だが、これも青春小説の1つ。他にも管仲だけでなく、鮑叔や太子、君主などにも様々な女性が現れて男性たちの色を添えている。

 本作品は、管仲を通して数々の絶望に遭遇しながらも、友人の支えによって再生する物語でもある。そのおかげで管仲は80歳を超えてまで、君主を支え続けることができた。

 まだ「乱世」が世に広まっていない、素朴な人間が多数存在した時代の物語。

 

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4 沈黙の王(短篇集:1992) 

 短編集ですが、中国文明で特質すべき「文字の起源」と、(西)周が滅亡して春秋時代に入る経緯を紹介した作品があるので、取り上げました。三代(夏・商・周)から離れた残る1編は、直木賞を受賞した名作 「夏姫春秋」の後日談と言える内容。

 霞がかかるほど遠い昔の「点描」のような作品集です(なお作品は年代順に並べ替えました。掲載順は1と2が逆です)。

 

1 地中の火夏王朝:BC1860年頃)

 中原で后羿(こうげい)を首領とする族は、いつの間にか一大勢力になっていた。そこに野生のような男の寒浞(かんさく)が現れ、時の夏王朝でさえ、后穿の弓矢を防ぐことはできないと吹き込む。

 后羿は乗せられて夏王朝を破るが、自分の族の被害も大きくなる。そこにつけ込んだ寒浞は、為政も外交もそして謀計も優れていた。まず后羿を主から棚上げして実権を握ると、ついには殺害してその座を奪う。更に夏王も殺害して寒浞の王朝を打ち立てた。しかし夏王の遺児の小康が遺臣と共に叛旗を翻し、寒浞とその子らを殺害し、40年間で夏が再興した。

 

 最古の王朝「夏」が、1人の逸材により滅び、そして再興する物語。歴史を動かすものは4000年前も現在も変わらないと感じます。

 

  *后羿(ウィキペディア)

 

 

2 沈黙の王   (商王朝:BC1200年頃)

 商 (殷)王の小乙には、言語障害を持つ丁(子昭)が王子で、神意を群臣に伝えることができない。小乙は子昭に、賢者から言葉を学ぶよう命じるが、子昭は納得できる賢者に出会えなかった。子昭は商王朝の開祖の陽王が眠る祀に向うと、そこに陽王が夢に出て告げる。

 「汝の苦しみは救ってやれぬ。高祖(舜帝)が祭事をした都を目指せ。疑ってはならぬ」

 お告げを信じて子昭は都へ向かうが、途中奴隷狩りの兵に捕まってしまう。ところが同じく捕まったという男は、子昭が一言も発しないのに、子昭の心の声を聞いて答えることができた。説によって子昭は言葉を得ること、そして通じ合う感動を知る。

 子昭は王が危篤という報を聞いて都に戻ったが、父小乙はすでに崩御していた。子昭は武丁として即位する。武丁は口を開くと「象を森羅万象から抽き出せ」と命じ、文字が創造される。武丁は商王朝として版図を最大に広げた。

 

 文明を大きく変えた「文字」の起源。これにより法と制度が確立し、思想が生まれ伝承し、歴史が語り継がれます。

 

  *甲骨文字(ウィキペディア

 

3 妖異記   (周王朝:BC770年頃)

 周王朝は滅亡の危機に瀕していた。王事の記録係である太史の伯陽は、周は10年以内に滅びると明言する。時の幽王は正妃と太子が居たが、王宮の奥にいた褒姒(ほうじ)を見つける。体内に日か月が宿っているような美しさに心を奪われ愛妾として可愛がり、正妃とその王子は遠ざけられた。ところが伯陽は、竜の泡が黒いトカゲに化けることができ、1300年ほど経て霊魂になる伝説を偶然目にする。見かけは陰気なのに、声は陽気な褒姒と重なり、悪い予感に襲われる。

 周は遠ざけられた正妃の父が王である申との戦いになった。幽王の参集に応じた諸候は戦支度でやってきたが、申軍の侵攻はない。それを見て初めて褒姒が笑った。褒姒の体内にこもっている陽の気が爆発したのだ。周王朝は終わる。伯陽はそう感じて目をつむった。

 

4 豊穣の門   (前作の続き)

 掘突(くつとつ)の父の友は、周の幽王に仕える(てい)の君主である。幽王が褒姒を笑わせるための招集を重ねることで、人心は離れ友は周の滅亡を予感する。友は子の掘突には、幽王と褒姒の子を助け、子が亡くなった場合は正妃とその子が居るを頼るよう遺言を残す。周は戦いに敗れ、友と幽王そして褒姒の子は亡くなった。掘突は父の遺言通り単身申に向かい、一旦は幽閉される。牢には褒姒も幽閉されていたが突然姿を消して、トカゲが残るのみだった

 間もなく幽閉が解かれ、掘突は申侯と対面した。申候に娘を妃に求める掘突に対し、申候は失った領土を回復したら認めると答える。掘突が鄭国の再建に手掛けると、父の徳を積んだ治世を覚えていた民と知略によって、たちまち領土は10倍に回復し、巨大な城砦の建設に着手する。

 

 300年続いた(西)周が滅亡し、「春秋時代」に突入します。夏、商に続いて登場する「暴君と妖女のコンビ」は、その後の中国王朝も続きます。

 

  *褒姒(ウィキペディア

 

5 鳳凰の冠 (BC4世紀頃)

 叔向は晋の貴族の1人。34歳になるが独身で、40歳までに妻帯しようかと構えていたが、高名な夏姫の娘を見て心が奪われた。

 叔向は晋の悼公(とうこう)に召され、太子の守り役となった。彪は心気に張りがなく、鍛え直す必要がある。叔向は厳格な教育者になった。

 悼公が死に彪が平公として即位すると、叔向を太傳に任じ、合わせて夏姫の娘を娶ることを命じた。婚儀が済んで会話をすると、美貌だけでなく賢婦とも言える女だとわかり、叔向は満足した。叔向はその後政争に巻き込まれて非情な決断も行なうが、平公を補佐し、晋国の覇業を補佐した。

 年を取り叔向は致仕を願い出る。そして最後の務めの日、初めて会ったときに妻の傍らあった、母の夏姫が残した夏姫らしい鮮やかで軽い冠を妻から下された。

 

 のちに取上げる「夏姫春秋」で、母は波乱の生涯を送りますが、その娘は「定年まで無事に勤め上げた役人」の妻として平穏に暮らしました。

 

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