小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

17 天下を計る(長束正家) 岩井 三四二(20l6)

【あらすじ】

 数字に強い「算用者」として丹羽長秀に仕えた長束正家は、融通の効かない「竪物」と見られていた。例え武勇で名高い武士にも算術の誤りには容赦をせず、帳面から丹羽家の実態を把握することで、主君丹羽長秀から信頼を受けていた。長秀は死の間際、天下人の秀吉は欲望が果てしなく信用できないと述べ、正家に長秀死後の丹羽家を託す。果たして秀吉は丹羽家に120万石から15万石に大減封を命じる。

 

 減封の過程で借金踏み倒しの嫌疑をかけられ、豊臣家から調査が入るが、正家は独自に工夫した帳簿で、指摘された問題点を淀みなく説明して疑問を晴らす。仕事への取組みと帳簿の工夫を見た石田三成は感心して、正家に豊臣家に直接仕官するように勧める。正家はその誘いを断るが三成の勧誘は執拗で、ついには秀吉本人から命令の形で召喚されてしまう。

 

 秀吉と同席した堺の商人の千利休から、算用で大切なものについて問われ、数字は嘘を嫌うため誠実さが必要と説く。秀吉からは戦で必要なことを問われ、銭があれば兵を集め兵糧が欠けることなく、勝ちを収めると答え、秀吉を喜ばせる。重ねて「天下の富を算用で帳付けして計りたい」と意気込みを伝え、利休はその思いに一抹の不安を覚える。

 

 秀吉は九州征伐において、30万の大軍を1年常駐させるために、100万石の兵糧と馬の飼葉を準備するよう正家に命じる。ところが船が足りず計算が成り立たない。正家は「算用者」の立場から軍勢を20万に減らし、常駐を半年としなければ兵姑は賄えないと進言する。周囲は凍り付くが秀吉は正家の意見に従い、規模を縮小して島津家を屈服させた。そして信玄と謙信の両雄でも落とせなかった小田原城を、正家は船や湊、倉庫などを準備万端整え、「兵糧奉行の戦い」と意気込んで見事成功させる。

 

 天下統一が成ると、正家は「天下を計る」ことを目指す。従来米の収穫は申告制で各地まちまちの単位だったが、単位を統一して検地することで全国の収穫高を把握する。そこから各大名の軍役を中央が管理することで、戦乱を抑制すると考える。ところが加藤清正は、地元の民が長い間かけて作りあげた方法を、奉行たちが秀吉の命を背景に否定して、力を濫用することを危惧する。

 

   長束正家ウィキペディアより)

 

 天下人となった秀吉は朝鮮出兵を号令するが、事前に兵姑を想定した正家や三成らは、船の不足と荒れる海の状態、朝鮮半島での搬送が困難なことから、大軍は出兵できないと判断していた。懸念通り兵姑が届かず日本軍は飢えと病が進行する。正家は責任を取って蟄居を命じられるが、代わりとなる者はいない。

 

 秀吉の死後関ケ原では三成と共に西軍に与する。妻のお栄本多平八郎忠勝の妹で、家康も「算用」に理解があったが、家康に仕えても自分の居場所はないと判断した。家康が上杉征伐に赴く際、正家は自城に誘い、家康を暗殺しようと賭けに出るが、家康に察知されて逃げられてしまう。

  *最初の主君、丹羽長秀ウィキペディアより)

 

【感想】

 五奉行の中でも地味な(と私は感じていた)長束正の物語。数字が好きで、そこから大名家の実情を把握し、計る対象は天下へと広がっていく。その性格は「竪物」で、武辺一辺倒の武士が計算間違いをしても、忖度することなく相手を否定する。正家が間違えた帳面に朱を入れて修正すると、帳面は真っ赤となり「骸」と呼ばれる。司馬遼太郎の名作「花神」の主人公、大村益次郎を思い重ねる。

 数字は嘘をつかないため、自分も嘘はつかない。主君から見るとこれほど信用できる家臣はいないが、時によっては煙たい存在でもある。「天下を計る」ことに対して千利休が抱いた危惧。これは城山三郎の名作「男子の本懐」で、財政家井上準之助が暴走する陸軍に対し、予算から歯止めをかけようとした企みに通じる。「武断派」は当然面白くなく、結局大村益次郎井上準之助も、暗殺という形で舞台から排除された。

 

   印象に残った挿話の1つとして、「偉大なる補佐役豊臣秀長が、権力者の弟を傘にかけて、賄賂を求め年貢を誤魔化す人物に描かれている点。正家は理屈と証拠で対抗するが、それが正論なだけに秀長も面白くない。しかしそんな秀長の存在が、豊臣家中の騒動を抑える役割を果たしていたことを、秀長が病気で倒れ不在になってから正家は実感する。【あらすじ】で書いた加藤清正の「危惧」も、千利休の抱いた不安に通じている

 もう1つは北条攻めで石田三成を主将とした忍城攻めに付き添った時。三成は秀吉の高松城攻めよろしく忍城を水攻めにして、堤を作り上げる構想力や実行力を発揮したが、秀吉ほど将としての 「運」には恵まれていないと悟る点。それでも関ケ原の戦いでは、家康にも伝手はあるのに、算用者としての役割を考えて三成に味方する。

 

  

 *映画「のぼうの城」で長束正家を演じた平岳大。ここでは短慮で居丈高な軍使の役で、降伏する予定だった相手は開戦してしまいます(映画.comより)

 

 それまでの大名の勘定方の帳簿は、現在の現金出納帳程度のものだったが、正家は複式簿記による勘定科目毎の帳簿を作成し、各勘定の動きと在庫を把握して、大名の経営を「見える化」した。天下統一の過程で各大名が豊臣の支配下となると、その方法を各大名に教え全国に行き渡らせることで、正家は自分に与えられた役割は果たした。   

 関ケ原の戦いでは毛利家と共に雨宮山に陣を構えたが、吉川広家の邪魔もあり、戦いに参加できないまま敗北した。戦後覚悟を決めた正家は妻と離縁をして、最後に正家は自分を「負けたあとは、帳面を始末するように」自害して我が身を始末した。

 

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16 海将 若き日の小西行長 白石 一郎(1997)

 唐突ですが、国会の政治倫理審査会のハナシ。キックバック再開を主導した人について、安倍派幹部全員、記憶が無いと言ったことに対して、「ひるおび」の恵さんが「そして誰もいなくなった」と言って揶揄していました。

 けれども恵さん、本の選択を間違えていますよ。

 タイトルは言えませんが、ミステリーの世界では「容疑者全員が犯人」というトリックがあります。

 名探偵でなくても、国民誰もが推理できます。  ・・・・では、本題に入ります。

 

【あらすじ】

 羽柴秀吉が大名となり播磨侵攻を命じられる頃、居城長浜城に播磨の豪族、黒田官兵衛織田家に帰順するためにやってくる。その時官兵衛は、堺の豪商で秀吉の兵姑を担っている小西隆佐を紹介された。小西隆佐は秀吉の人物に惚れ込んで商売を賭けていたが、才気利発な親族の弥九郎を養子として、事業を継がせようと思っていた。秀吉もその話を聞いて、弥九郎を播磨攻略には欠かせない備前 (岡山)の宇喜多家に送り込んで誼を通じ、秀吉と宇喜多家の交流を持たせようとした。

 

 宇喜多家の御用商人、魚屋九郎右衛門の養子として入り込んだ弥九郎は宇喜多直家に気に入られ、武家としての禄も食むことになる。策謀によって滅亡された家が多く、梟雄として悪名高い直家だが、直家は戦争によって多く人命を失うより、策略によって多くの命を救うことが良策と信じている。そんな直家に弥九郎も徐々に心服していく。

 

 間もなく宇喜多直家は重病にかかり、まだ8歳の嫡子秀家の将来を憂い、老醜を晒して生涯を終える。その間秀吉が三木城、鳥取城、高松城を次々と攻略する中で、弥九郎は海運から秀吉の兵砧を支えていく。また高松城では船を砦のように浮かべて城を攻め、武士としても秀吉から信頼を受ける。

 

 そこへ本能寺の変が起き、秀吉は「大返し」を行ない、弥九郎は水路からこの強行軍を支えた。これにより秀吉は天下人への道が開け、秀吉に賭けて商売をしてきた義父小西陸佐は堺でも屈指の豪商となる。弥九郎は秀吉政権下で舟奉行として活躍、紀州の雑賀攻めでは大船や大砲を動員して攻撃し、太田城攻略に貢献し、その功により小豆島1万石を与えられて大名となり、小西行長と名乗ることになる。

 

  小西行長宇土市HPより)

 

 元々小西家ではキリシタンが多く、高山右の後押しにより弥一郎も洗礼を受けキリシタンとなる。しかし九州征伐に従った際、長崎ではイエズス会がその財力に物を言わせて、担保とした領地を手に入れて、他の宗教を破却してキリスト教を中心とした街づくりをしている姿を見る。布教は許されるが、「支配」は秀吉の怒りは免れない。秀吉は案の定「バテレン追放令」を発布し、第1弾として高山右近と宣教師の追放を命じる。行長は棄教をすることは拒否する右近らを小豆島に匿い、その後ろめたさから、今までにも増して秀吉のために身命を賭して働く。

 

 その後秀吉から行長へは何も言ってこないことが不気味だったが、秀吉は朝鮮出兵を企てていて、商売で対馬から朝鮮へと渡っている行長を利用しようとしていた。そして秀吉から登城の命が下る。覚悟を決めて拝褐した行長が秀吉から渡されたのは、1万石からいきなり肥後24万石へ転封の朱印状だった

 

 

【感想】

 「戦鬼たちの海 織田水軍の将・九鬼嘉隆」で織田水軍を描いた白石一郎は、本作品で今度は秀吉水軍を描いた。作者があとがきで、史実がはっきりとしている場面は小説家として腕の振るいようがないとして、肥後の大名以降は省き、断片的な記載しか残されていない「若き日の」小西行長を中心に描いている。

 

  *白石一郎が描いた「織田水軍」の物語です。

 

 そのためウィキペディアでの生涯とやや食い違う点もある。陸佐を実父と取るか義父とするか、また武将に仕えたのは秀吉が先か宇喜多直家が先かなど、白石一郎なりに納得できる考えで物語を編み出したもよう。そして 「海」を描くのも「戦鬼たちの海」と共通し、同じように、文中で時々挿入される「舟歌」が心地良い。

 豊臣秀吉バテレン追放令に到る過程は、本作品が一番頭に入りやすい。長崎のイエズス会による実質統治、後の帝国主義政策における「租借地」の実態が描かれて、当時の天下人からは到底受け入れ難いものだと納得させる。またポルトガル商人による日本人奴隷の売買が発覚したことも理由の1つ。そのやりすぎを危惧しながらも、キリシタンの行長は苦悩することになる。但し同じキリシタン蒲生氏郷はともかく、黒田官兵衛が秀吉の目を隠れて高山右近を匿うことに一役買ったとは、思えないが。

 本作品は行長が肥後24万石を受けるところで終わるが、小西行長のその後を駆け足で記す。猛将佐々成政が統治に失敗した肥後は、長年国主が不在で国人が割拠し、天草はキリシタン門徒多数を占める難国だが、同じく肥後領主となった加藤清と共に一揆を平らげていく。しかし加藤清正は以前から行長を「魚屋の倅」と蔑んでいてそりが合わず、確執は徐々に拡大する。

 その後朝鮮出兵の先鋒を2人に仰せつかるが、戦線を拡大したくない行長や石田三成は、戦争を続けようとする秀吉の意向を第1と考える清正と対立する。行長と三成は清正の動きを抑えるために秀吉に讒言し、謹慎処分に持ち込んだこともあり、関ヶ原に至る大きな溝を作ってしまう。行長らの講和エ作は失敗し再度出兵が始まるが、戦況は最初から好転しないまま秀吉が薨去して、朝鮮出兵終戦となる。

 関ケ原の戦いでは、石田三成宇喜多秀家との誼に加え、加藤清正が東軍についたことから西軍に与すが、朝鮮出兵の痛手が大きく、力を出し切れなかつた。敗れるも行長はキリシタンの教えから自害はせず、六条河原において石田三成安国寺恵瓊と共に斬首された

 なお行長はマカオなどに転売された日本人の救済に努めている。また堺や領内に病院を建設し,ハンセン病患者を宗教に関係なく手厚く遇し、また捨て子の救済として孤児院を建設している。

 

小西行長が仕えた宇喜多直家。「梟雄」とはまた別の角度から光を当てています。

 

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15 全宗 火坂 雅志(1999)

【あらすじ】

 忍びの里、甲賀で生まれた全宗は、子供の時にうまが合わない継父を殺して出奔する。そこで深泥無仁斎に拾われ修行を続け、やがて忍びの奥伝、人の命を奪う「陰薬」を伝えられる。しかし全宗は世に出たい欲望を捨てきれず、忍びを抜けて有名な医師の元で学ぶ決意をする。しかし甲賀は「抜け忍」を許さず、全宗はやむなく比叡山に逃げ込んだ。

 

 比叡山に入って1年経ち、薬樹院という坊舎があるのを知る。全宗は貪欲な知識欲で薬の知識を学び、薬樹院の住職となった。医を糧に権力に近づきたい全宗は、比叡山の焼き討ちを逃げ延びた後、木下秀吉の知遇を得ようとする。織田信長が天下を取るのは間違いないが、比叡山を焼き討ちした信長に仕えることはできない、と全宗は判断した。

 

 秀吉は全宗の希望を聞き、当時日本の医学界に革命を起こした曲直瀬道三の門下に入り、最新の医術を学ぶように斡旋する。曲直瀬道三は明の医者が始めた、当時としては最先端の臨床医学を習得し、将軍足利義輝の病気を治したことで名を高めていた。しかし入門した啓廸院では全宗も新入りの扱いにされて、道三から直接の教えを受けることはできない。しびれを切らした全宗は、書庫に忍び込んで独自に知識を貪欲に吸収しようとする。

 

 すると道三の往診に付いていく機会が与えられた。突然道三から病人に対して薬の処方を命じられて、全宗は自らの判断で処方を行う。その処方は単に病を治すだけでなく、相手を欺く狡さを取り入れて、気持ちの持ちようから素早い効果を得られる内容も含まれていた。

 

 道三は医学を学ぶ以前に足利学校で医学のほかに軍略面も学び、医師は武将の側に控え、時に縁起を担いで武将の気分を高揚させ、時に秘密を知り世を動かす立場にあると理解していた。そんな道三は全宗の処方を認めるが、二代目の玄朔には相いれないものだった。

 

 秀吉は12万石の大名から中国攻めの司令官に出世し、全宗は自らの野望が次第に叶えられる立場に近づく。三木城攻めの際に瀕死の病に陥っている竹中半兵衛から、死後は全宗に秀吉の帷幄の臣になるように頼まれる。これからは軍師ではなく参謀の時代であり、全宗の野心は、参謀の立場で叶えるべきだと。

 

 *施薬院全宗(ウィキペディアより)

 

 本能寺の変が起き、秀吉が天下人に、そして全宗は望み通り天下人の侍医となった。時に全宗57歳。その立場を利用して、比叡山延暦寺奈良時代で途絶えた薬院の復興に尽力し、自身の権威付けにも利用していた。また「目の上のこぶ」でもある曲直瀬道三がキリスト教に入信して南蛮の医術を取り入れようとすることを知り、秀吉に献策して、ついに全宗の手からなる伴天連追放令が発布される。

 

 全宗の野望は広がり、秀吉から絶対的な信頼を受ける仕上げとして、天下人の後継を生み出すことに取り組んでいく。秀吉に子が生まれないのは精が薄いためと考え、精を濃くするための薬を調合し、淀君には秘部に快楽を促進させる薬を塗布して受胎させる。しかしその子の出生には疑問が残るまま、全宗は秀吉の死を看取って間もなく、自らの生涯を閉じた。

 

【感想】

 秀吉の「帷幄の臣」となった(施薬院全宗。医師でありながら外交にも手を貸し、政策の一助を担う存在となった。過去には奈良時代弓削道鏡、そして家康幕下の天海崇伝の存在か。そんな広範な力を有する全宗を、足利学校出身のライバルの曲直瀬道三を補助線として紐解く。

 

  *曲直瀬道三(ウィキペディアより)

 

 曲直瀬道三が学んだ足利学校は本邦第一の学問所であり、その教えは医学だけでなく漢学、儒学天文学兵学、易学など様々な分野に広がる。出身者は各地で「軍配者」として戦国武将に侍り、医術は言うに及ばす、戦術、祝典、祭事を司り、その知識から政略の関与にも及ぶ。富樫倫太郎の「軍配者シリーズ」(「早雲の軍配者」「信玄の軍配者」「謙信の軍配者」)は、風魔小太郎山本勘助宇佐美定満足利学校の同級と設定している。

 曲直瀬道三は医師として足利義輝を始め、細川晴元、三好長輝、松永弾正などの京洛を支配した武将たちはもとより、遠く中国の毛利元就に招かれて中風の病を治している。対して全宗も武田信玄の治療を行い、当時秘中の秘であった信玄の容態を、秀吉に知らせている。また急死した蒲生氏郷の最期に付き従った。

 そして本作品で火坂雅志は、全宗を甲賀の忍び出身として、曲直瀬道三に比する「総合的な」知識の持ち主として人物造型をしているのが興味深い。忍びで使う「陰薬」の知識は、曲直瀬道三の「本草学」だけでなく、鉱物から得られえる劇薬の知識も知悉していて、アヘンを利用した痛みの軽減や、強壮剤房中術を駆使して秀吉の後継者を生み出そうとした。

 

  *こちらも、主人公を甲賀出身として描きました。

 

 曲直瀬道三の養子の玄朔を秀次事件に合わせて追放し、曲直瀬一派を従わせて、医薬界の頂点に立った全宗。医師の立場を高めただけに限らず、自らの「野望」を交えて、「望むところ必ず達す」とまで言われたギラギラとした生き様を描いた。その仕上げは、天下人の後継者作り

 秀吉には精を濃くする薬を調合し、淀君には快楽を促進させて受胎するが、その子の出生には疑問が残る。全宗も最後は、自分のような野望を持つ人物に利用されてしまう。

 医について、当時と今では考え方も取り扱いも効果も、だいぶ異なるもの。全宗はこの時代の医の世界を「体現」した。しかしそのためには、秀吉という権力の傘が必要で、秀吉の死と共に全宗の野望も潰えた。

 

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