小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

7 島津奔る 池宮 彰一郎(1989)

【あらすじ】

 豊臣秀吉の島津征伐後に家督を兄義久(龍伯)から譲られた島津義弘。秀吉の命により朝鮮に出兵したが、敗勢の中秀吉が薨去して帰国命令が出る。明・朝鮮連合軍は20万、対して島津軍は6千余り。しかも日本軍は皆退却の中にいて、援軍は期待できない。殿(しんがり)となった島津義弘は、「釣り野伏せ」の陣を引き、20万の連合軍を完膚なきまでに打ち破ると、続けて朝鮮水軍の英雄李舜臣をも撃破し、義弘は敵から「石曼子(シーマンズ)」と恐れられる。

 

 しかし領国は、長年の戦闘続きで疲弊しきっていた。しかも軍事を担当する義弘に対して、内政を担当する前当主で兄の義久は、戦で名を高めた義弘に嫉妬心を持つ。家中では宿老の伊集院忠棟が秀吉の朱印状を盾に、家政を壟断する。義弘は息子忠恒を使い伊集院忠棟を切り捨てることで家中を治めたが、忠棟の子伊集院忠真は内乱を起こし(庄内の乱)、関ヶ原まで続いていく。

 

 島津義弘は65歳になっても、外征に内政にと休む間もない中、島津家の行く末を定める必要があった。徳川家康石田三成の対立が明らかになり、家康による上杉征伐の話が持ち上がる。義弘は家康に与しようとするが、伏見城守護を家康の家臣鳥居元忠から断られてしまい、不本意ながらも三成方につくことになった。

 

 但し島津兵の大半は内乱で国元に戻り、大坂には500人程しかいない。国元に増兵を要請するが、義久は中立を標榜し動かない。ところが話を聞いた薩摩の地頭、長寿院盛淳は、自ら志願兵を呼びかけ、それに応じて具足櫃を背負った兵士が3人5人と肥後へ走っていく。農作業のさ中にその光景を見た中馬大蔵は、そのまま兵士の群れについていく。

 

  島津義弘ウィキペディアより)

 

 ようやく集った1,000人をまとめて島津義弘は西軍に合流する。しかし大将の石田三成は、大名を集める戦略はあったが、戦は素人で戦術が定まらず、それでいて周囲の意見に聞く耳を持たない。三成に愛想を尽かした義弘は、関ヶ原で戦いが開始しても、戦争に加わらないことを決意する。

 

 義弘の見込み通り、西軍は一旦崩れるとすぐに壊滅状態となった。戦いが全て終わり、戦場に最後に残された島津軍。島津軍は全員死兵と化して、敵将家康の本陣を突っ切って脱出する決死の行軍を行なう。多大な犠牲の元、島津義弘は薩摩に帰り着く。

 

 九州制覇の過程での激しい戦の数々、慶長の役での信じられない快勝、そして関ヶ原で家康本陣をも脅かした空前絶後の「退却劇」。これらを見せつけられた家康は、数々の交渉を重ねるも譲歩を引き出すことができず、島津家に対して本領安堵を約束するしかなかった。

 

 

 関ヶ原の陣形図。毛利軍(右下、青の蛍光ペン)と違い、島津軍(左上、赤の蛍光ペン)は戦場のど真ん中に陣取っていました(刀剣ワールドより)

 

【感想】

 最後の「補遺」で、関ヶ原の数少ない生き残りの中馬大蔵が、若き侍に関ヶ原を物語る逸話が、全てを語っている。「さても、関ヶ原と申すは・・・・」と三度絶句して言葉が出ない。そして脳裏に浮かぶのは、辛酸をなめた7年に渡る朝鮮の役であり、多くの犠牲を生みながらも関ヶ原から薩摩までの退却戦であった。

 戦国時代、九州全土を席巻した島津四兄弟。幾多の戦場で活躍した次兄の義弘(惟新入道)が本作品ても主役を演じている。しかし「島津は屈せず」では、本作品では精彩のない長兄義久について、時には秀吉、家康と知略で互角に渡り合う人物として、再評価している。

 

*「毛利は残った」に続く「大名ザバイバルシリーズ」の第2弾。「島津奔る」は義弘を主役としましたが、こちらは長男義久を主役としています。

 

 豊臣秀吉九州征伐で島津家を倒した上で本領安堵としたが、義久とは別に弟義弘には大隅一国を、そして元々秀吉との連絡役で懇意でもあった伊集院忠棟にも領土を与え、秀吉の島津家分断作戦は成功したかに見えた

 ところがそのために庄内の乱が起き、関ヶ原の戦いでは島津家が兵を充分に用意できなかった。もしも島津義弘の名声と、少なくても5千ほどの兵を抱えていたら、西軍でも発言力がだいぶ変わったはず(しかし、最初から東軍についたかもしれない)。

 関ヶ原の戦いが終り、取り残された島津軍は、退却方法に敵中突破(島津の退き口)を選んだ。猛将福島正則でさえも攻撃を控え、抵抗した井伊直政は鉄砲傷を受け、そのため後日亡くなる。

 1,000人の軍勢が200人に減りながらも、山間の間道「烏頭坂」にたどり着いた。ここで義弘の弟家久の子島津豊久が最後尾で主従わずか13人が身を挺して敵の攻撃を防ぐ「捨てガマリ」を使い義弘を逃がす。身代わりの豊久は、鎧兜が原形をとどめないほどの凄惨な死に様を見せた。継いで家老の長寿院盛淳も、同じく身代わりとなって命を散らす。

 しかしこれらの凄まじい戦を目の当たりにした家康は、本土で徹底抗戦する島津家に減知の命を下すことはできなかった。家康の島津に対する懸念は、自らの屍を西に向ける遺言となるが、その懸念は毛利家と共に明治維新によって現実のものとなる。

 

 多くの犠牲を重ねながら、関ヶ原の戦いを経て本領安堵に至った「薩摩太平記」とも言える物語。島津義弘は晩年身体が衰え、食事を摂ることも難儀になった。心配した家臣が「殿、戦でございます」と告げ鬨の声をかけると、義弘は目を見開き、考えられないほどの量の食事を平らげたという。

 戦に命をかけた生涯を過ごした「戦人」の宿痾

 

島津豊久の父家久(島津四兄弟の末弟)を主人公とする作品は、秀吉による九州征伐までの物語です。

 

 

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