小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

19 武士道 直島直茂 近衛 龍春(2019)

【あらすじ】

 1538年、鍋島清房の次男に信生(後の直茂)は、寺で修行をしつつも武士として活躍することを夢見ていたが、領主の龍造寺隆信が寺に来た折に目を付けられて、隆信の近習に引き上げられる。龍造寺家は当時大友家から攻められて一時肥前から勢力が一掃されて、隆信が盛り返そうとしていた矢先だった。そして鍋島家は父清房と長男信房が、その柱石として支えていた。

 

 初陣で活躍したあとも直茂は近習として働き、周囲の豪族に対して権謀術数を用いて徐々に龍造寺家の勢力を広げていく。隣国の強敵、大友軍と争った1570年の今山の戦いでは、家中が籠城に傾く中で夜襲を進言し、夜襲隊を指揮して大友軍に勝利、そしてすかさず和を結び「実」を上げる。その後の大友との連携が功を奏し、1575年は筑前の宿敵、平安時代からの名門少弐氏を完全に掃討、1579年には肥前の有馬氏と大村氏らを屈服させ、悲願の肥前統一を成し遂げる。

 

 大友家と島津家が耳川の戦いで激突し、数で劣勢だった島津軍が大勝、大友軍は壊滅的な敗北を喫したのを機に、島津家と連携して大友家の領土を侵攻する。この頃の領主龍造寺隆信は直茂の諫言も聞かなくなる。臣下も平気で約束を破り人質を殺すなど、残虐な性格が露わになるだけでなく、側近の勝屋勝一軒が吹聴する都合のいい話しか耳を傾けない。それでも直茂は先頭に立って戦い、かつ調略や裏切りなどの「汚れ仕事」も担うことで、龍造寺隆信は「五州二島」の太守と呼ばれるほどの領土を回復し、九州を大友家、島津家と3分する勢力に拡大した。

 

 1584年、沖田畷の戦いで2万5千を擁する隆信が1万に満たない島津氏に敗れ、大将隆信が戦死する衝撃的な敗戦を味わう。直茂は隆信の嫡子政家を輔弼して勢力挽回に務めるが家運の衰退は否めず、当面島津家に恭順する形をとる。その裏では中原で覇権を握る豊臣秀吉と誼を通じていた。秀吉軍の九州接近を知ると直ちに島津と手切れし、立花勢とともに島津攻めの先陣を担って島津氏を屈服させた。

 

  鍋島直茂ウィキペディアより)

 

 秀吉は龍造寺政家肥前国31万石を安堵したが、朱印状は子の高房あてとし、家中の分断を企む一方、鍋島直茂にも直々に3万石余を与え、秀吉は国政を担うよう命じる。政家は病弱なこともあり戦場には出ず、朝鮮出兵で直茂が先頭に立ち、関ヶ原の戦いでは息子の勝茂が西軍に参戦したが、直茂は事前に米を買い占めて徳川に対して米の目録を送り、家康に味方することで領地は安堵された。

 

 江戸時代に入り、龍造寺高房は幕府に対して龍造寺家の実権回復を働きかける。しかし幕府は反対に、キリシタン問題や島津家の存在など難問を抱える肥前の地は、力のある直茂・勝茂父子に禅譲をすべきとの判断をする。このため勝茂は幕府公認の下で跡を継いで、龍造寺家の遺領を引き継ぎ佐賀藩主となった。直茂自身は龍造寺家に遠慮して藩主にはならず、81歳で死去する。

 

 

【感想】

 鍋島直茂の死後100年ほど経って書き上げられた「葉隠」。「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な肥前佐賀藩に伝わる伝書であり、佐賀藩主の心得、そして主君への忠誠が描かれている。

 鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示、また「隆信様、日峯(直茂)様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記して、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。

 

  

 *「肥前の熊」と呼ばれた巨漢の龍造寺隆信ウィキペディアより)

 

 ところが鍋島直茂龍造寺隆信の子の政家やその子の高房に忠誠は誓わなかった。江戸幕府の治世になった1607年、高房は直茂を恨んで直茂の養女である夫人を殺し、自殺を図る。その場では一命を取り留めたが、直茂は父政家宛に高房の行状を非難する書状「おうらみ状」を送った。直茂は秀吉や家康に国政を任され、龍造寺家に最大限敬意を払ってきたし、また待遇面でも不自由のないよう取りはからってきたのに、家系を断絶させる真似(自殺未遂)をしたのは何故かと、かなり厳しい内容が続く。高房は自殺未遂の影響でそのまま死亡、父政家もその翌年、病気で死亡し、龍造寺隆信直系の再興はならないまま終った。

 当時の九州を巡る政治状況からして、病弱な龍造寺政家とその子に肥前の大国を任せるのは、秀吉も家康も不安があったのは事実だろう。しかし直茂は秀吉への誼を通じるにも、龍造寺ではなく自分の名で申出している。また沖田畷の戦いでは、鍋島直茂が主君龍造寺隆信をわざと泥濘みの地に誘い出して立ち往生させ、島津軍に殺害させたというまことしやかな話もある。本作品でも秀吉の述懐として、龍造寺隆信織田信長の共通点を取り上げ、そこから見事に這い出したことに対して、自分と重ね合せる意味深長な指摘をしている。

 鍋島の「化け猫騒動」は、白装束を身にまとった龍造寺高房公の亡霊が、愛馬に跨がって城下に出没するとされ、そこから高房が飼っていた猫が直茂・勝茂親子に復讐するというもの。また直茂の死因も81歳と高齢ながら耳たぶにできた「いぼ」が、切っても何度も出てきて、最後は悶絶死したと言われる

 真偽は定かでないが、そのような「噂」が広まるということは、その土壌があったということ。そして「葉隠」に書いてある秀吉の直茂への評価「勇気、知恵はあれど大気がない」は、当時の徳川幕府に楯突く気持ちがないことを伝える「媚び」とも思える。鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを家臣に伝えるには、葉隠」を制作する必要があったのだろう

 

  龍造寺高房ウィキペディアより)

 

 先に述べたが、当時の九州の事情も踏まえて、鍋島直茂を後継者としてその地に据えたのは、当時の天下人の判断である。

 しかし鍋島直茂を「武士道」の権化として描くのは、少々抵抗が残る。