小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

小説で読む戦後日本経済史③ ニクソンショックとオイルショック(1971~1973年)

1 「日本は燃えているか」

 柳田邦夫によるノンフィクションの傑作「日本は燃えているか」が描かれた時代。なおこの題名は、第二次世界大戦でパリのレジスタンスがドイツ占領軍に対抗した闘いを描いた映画「パリは燃えているか」に由来する。ドイツ軍がパリから退去をしたとき、総統ヒトラーは、パリを「壊滅」するように命じる。その際ヒトラーが電話で「パリは燃えているか」(命令通り壊滅したか)を問う言葉が聞こえてくる。

 「外圧」をかけたアメリカ側と、それに抵抗した日本のエスタブリッシュメント(政策決定者)たちを、ナチスドイツとレジスタンスに重ね合せた、現代にも通じるノンフィクションの傑作。そして「パリは燃えているか」の息吹は、NHKスペシャル「映像の世紀」のテーマ曲でも使われて生き続けている。

 

2 2回に渡る「ニクソン・ショック

 1971年7月、当時国交がなかったアメリカが中国を電撃訪問する「第1次ニクソンショック」は、特に日本外交に転換を迫られる大事件だった。翌月の8月15日(アメリカの「戦勝記念日」)に電撃的に発表された、第2次ニクソンショックと呼ばれる「金・ドルの兌換(交換)一時停止」は、「第1次」に比べてわかりづらいが、後々に大きな影響を及ぼすものだった。1945年に発効されたプレトンウッズ体制は、アメリカを中心とする固定相場制を軸にした金兌換通貨体制(城山三郎「男子の本懐」金本位制の説明について)。ところがアメリカの経済力が低下して、ドルの信用が揺らいで各国で金に兌換(交換)する動きが相次ぎ、アメリカの金準備高が不足する危険水域に達してしまう。ニクソン大統領は「アメリカによるモラトリアム(支払猶予令)」を、これまた各国には隠密理に電撃的に発表した。

 

   

  佐藤栄作総理とニクソン大統領(時事通信社より)

3 スミソニアン協定と管理通貨制度への移行

 ニクソンショックの同年12月、スミソニアン協定が結ばれる。貿易摩擦で一番目の敵にされた日本は、1ドル360円だった固定相場が1ドル308円の固定相場に切り上げされた。しかし、その後この協定による「スミソニアン体制」は長続きせず、日本は1973年2月から変動相場制へと移行する。この為替レートの変更や変動相場制への変更による為替差損で、輸出産業は全体的に大打撃を受け、高度経済成長期の終焉を迎えた(塩田潮著霞が関が震えた日」)。

 

4 オイルショックと狂乱物価

 1973年10月には中東戦争を発端とした原油輸出制限(堺屋太一著「油断」)で、原油価格の大幅な上昇(オイルショック)により狂乱物価が勃発し、1974年にはマイナスの実質経済成長率(-1.2%)となり、高度経済成長から安定成長に移行した。また、税収不足から1975年度から赤字国債が発行されるようになり、この年から恒常的な財政赤字が始まった。

 高度成長の担い手であった労働力(「金の卵」)は、農山村から太平洋ベルト地帯、とりわけ首都圏に集中したため、地方の過疎化と大都市の急激な過密化が問題となりつつあった。長期に渡った佐藤内閣の後を継いだ田中角栄内閣は、日本列島改造論を提唱し、高速道路網を全国に張り巡らせ、地方に病院や港湾、学校などの公共施設を次々と建てて、大都市と地方のインフラ格差を埋めようとした。但しその積極財政は財政赤字と共に、景気後退下での物価上昇を意味するスタグフレーションを巻き起こした。

 またこの頃から主要輸出品は鉄鋼から自動車や家電へと移行し(佐木隆三著「冷えた鋼塊(インゴット)」・清水一行著「燃え盡きる」城山三郎「勇者は語らず」など」、経常黒字が増加していく。

(データはウィキペディアから引用しています)