小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

2 水の砦 福島正則最後の闘い 大久保 智弘(1989)

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【あらすじ】

 福島正則徳川家康死後の1619年、本多正純の悪謀に嵌り安芸50万石を没収されて、信濃国川中島の4万5千石に転封を命じられた。わずか30人余りの供を連れて移封し、嫡男福島忠勝家督を譲るが、翌年忠勝は突然亡くなる。一見自然死と見えたが、同じく本多正純から改易の憂き目にあった大久保一族の家臣、大蔵伝内が調べると死因は「暗殺」と判明する。感情を爆発させる正則は「売られた喧嘩」として、本多正純と戦うことを決意する。

 

 

 まずは防御を固めてから。秀吉配下で治水や町造りを学んだ正則は、福島砦の周囲に水田を開墾し、氾濫を繰り返す千曲川の治水を整備することで外堀とし、攻撃側からの進路を阻む算段をつける。正則の影武者に仕立てることで、正則に行動の自由を得ることができた。  

 

 福島忠勝の近習だった高月彦四郎は、大久保党の協力者雪之介と共に安芸国に赴き、豊臣秀頼を担いで戦うために山中に隠した金塊を運び出す役目を担う。雪之介は「砕動風」という走行法を用いて、素早く疲れを感じないで走っていく。雪之介は飛びの道をゆく傀儡女(旅芸人)から生まれたという。

 

 一方福島正則は、高島大工の番匠、新左衛門尉に会いに行く。新左衛門尉は武田信玄に付き添い、敵城に忍び込んで支柱を抜くことで、一気に城を崩す技術を有していた。また築城の際も、クサビ1本を抜けば崩れる「城崩し」の仕掛けを埋め込む名人だった。福島正則江戸城築城の際、現地を視察するとクサビを発見して「城崩し」の秘技を見抜いていた。

 

  福島正則ウィキペディア

 

 福島正則本多正純の居城、宇都宮城の見取り図を手に入れる。そこで新左衛門尉に「釣り天井」のからくりを仕込ませ、日光参詣の途中に立ち寄る将軍秀忠に対する謀反の罪を、本多正純に着せようとした。宇都宮城に忍び寄る正則方の根来衆と、守る正純側の対立。新左衛門尉が作り上げた 「釣り天井」の仕掛けを本多正純は見破り、秀忠が宇都宮城に入っても作動しない。万事休すと思われたが、そこで大久保彦左衛門が裏から動き、将軍家暗殺の「疑い」をかけられると、正純は全てを悟り、潔く命に復する。  

 

 出羽佐竹藩預かりとなり、配所に進む本多正純。途中の廃屋で休憩する正純を、福島正則が主人となって天下の名器を使って茶を振る舞い、過ぎ去った戦国の世を語り合った。

 

 

【感想】

 福島正則豊臣秀吉の親族にあたり、本来は「豊臣秀吉編」で取り上げるべき人物だが、本作品の内容は秀吉どころか家康も死んだあとの話。関ケ原の戦いで奮戦した猛将も、その後加藤清正ら盟友たちに相次いで先立たれて意気消沈。そして家康死後、水害で被害にあった城の修繕の届出を、本多正純が握りつぶしたことで城の無断改修とされ、安芸国は没収とされる。酷い話だが、関ヶ原に味方についた外様大名の勢力を追い落とす「武断政治」の象徴的な出来事となった。「賤ヶ岳の七本槍加藤清正加藤嘉明の子らも、改易や大減知の運命を辿る。

 本作品は安芸を退去して川中島へと移封された後の物語。正則の川中島での生活はわずか5年だったが、領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水エ事などの功績を残したという。そんな功績を知り、「福島陣屋」を取り巻く地形から長野出身の作者に着想が浮かぶ。粗暴で短慮に描かれる福島正則を、秀吉譲りの有能な手腕と見事な智謀、そして50万石を率いた器量を有する人物として造形した。

池波正太郎は、福島正則を「イメージ通り」粗暴で短慮な人物として描きました。 

 

 その智謀を、作者は能楽者から金山奉行に立身した大久保長の由来に遡り、武田信玄の配下である伝説の技能集団に結び付けた。 金山の知識は古くは真言密教の山伏が信仰の対象として、金を探した技術が始まりであった。それが農民から平地を追い出された狩猟民族「山の者」と結びついて、山々の峰を結ぶ「飛びの道」を利用して「砕動風」を使って全国を渡り歩く。この足捌きを芸能に取り入れたのが、伊賀出身の観阿弥と言われている。

 大久保長安能楽者として金山の知識を有し、武田家から徳川家臣の大久保忠隣の配下となり、大久保一族隆盛の立役者となっていた。長安死後に本多正純が大久保忠隣を改易に陥れたために、大久保一族で頑固一徹大久保忠教(彦左衛門)が、影ながら福島正則に協力していた。

 そして最後に集約される「宇都宮釣り天井事件」。本多正純に対する「濡れ衣」の事件だが、噂を流して幕府に密告した亀姫は、徳川家康の長女で母を築山殿とする女傑。そして娘を大久保忠隣の子に嫁入りさせたがその婿が早世し、また大久保忠隣も本多正純の策略により改易となる。その後釜として本多正純が宇都宮に栄転したのに対し、亀姫の奥平家は格下の下総古河への転封を命じられ、本多正純への恨みは骨髄に達していた様子。そして権威を傘に来て横柄だった正純に対して、味方は少なかった。

 

 *こちらは本多正純による宇都宮釣り天井事件の「真実」に迫った物語です。 

 

 そんな背景を作者は福島正則と結びつけた。福島正則は2年後の64歳に死去する。正則死後福島家は取り潰されたが、その後忠勝の孫が旗本として再興を許された。なお正則の子忠勝は元々は「正勝」だが将軍秀忠の1字を賜り(偏諱)改名したもの。しかし墓には将軍家の偏諱を無視して 「正勝」と刻まれているという。

 福島正則の心の底の思いを感じさせる「事実」である。

 

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