小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

3 ザ・ハウス・オブ・ノムラ アル・アレツハウザー (1991)

 今年最後の投稿になります。1年間ありがとうございました。

 

【あらすじ】

 物語は1987年、ブラックマンデーの翌日、野村證券のある部長がどのような対応を取ったのか、から始まる。創業者・野村徳七徒手空拳から、相場でしのぎを削って証券会社を中心として巨大な財閥を形成した。野村徳七の死後は、灰燼の中から復活し、残された社員たちが戦後の混乱をくぐり抜け、ついには東京の大証券会社を抜き去って証券業界の「ガリバー」に成長していった。

 イギリス系証券会社「ジェイムズ・ケイペル」東京支店に勤務していたアル・アレツハウザーが、証券会社として世界でも特異な存在「ザ・ハウス・オブ・ノムラ」を、何百人ものインタビューを実施して著わしたノンフィクション。

 

【感想】

 あらすじで「ノンフィクション」と書いたが、イギリスで1989年に発刊された原作と日本語訳の本作品の、特に後半部分は「全くの別物」、と言われている。野村証券側(実際は大蔵省と信じられている)からクレームがついた部分、官僚の不正に触れた部分、日本航空と総会屋との関係について書いた部分などが削除されたほか、表現も大幅に穏やかで曖昧なものに書き換えられているという。先に「兜町崩壊」で取り上げた「官営カジノ」と、一部の「上級国民」がもうけるシステムを触れると、小説形式でも難儀だったため、「ノンフィクション」の名ではとても日本では発刊できない。

 まず野村證券の成長過程から。野村徳七が一代で築いた王国は、1945年1月、徳七が終戦を見ることなく生涯を閉じたところから苦難が始まる。財閥解体によって王国は引き裂かれ、そして中心を占める証券会社の存続そのものも危ぶまれる。公職追放が吹き荒れ大方の重役が姿を消した中で、戦後の混乱期に京都支店長として外交折衝を担当し、「蕩児」と呼ばれた奥村綱雄が45歳で社長に就任。GHQや当時の業界第一位の山一証券にも怖れずに批判した「辣腕家」瀬川美能留が42歳で常務に抜擢され、混乱の野村證券を牽引する。

 

 瀬川美能留は、巨人軍の「赤バット」でV9の監督を務めた川上哲治と親交があり、川上が「俺は人の2倍は練習した」と言うと、瀬川は「2倍は甘い。俺は人の5倍働いた」と答えたエピソードがあるほどの「営業の鬼」。後に野村総合研究所を設立し、野村證券を「株屋」から「金融機関」に代えて、業界のリーディングカンパニーに導いた人物として特筆される。

 「営業の鬼」瀬川の遺伝子は野村證券で働く社員たちへ受け継がれる。顧客に配った「百万両貯金箱」による株式投資の進め、中期国債ファンドの新設や先の述べた野村総合研究所の設立など、個人の相場観に囚われない、戦略を明確化した地道な(そして苛烈な)営業活動を軸にして、「ノムラ」における組織の構造を明らかにしている。

 功成り名を遂げた人物は若くして抜擢され、文字通り給料袋が立つほどの収入を得て、理想の生活を営む。反面、ノムラ、ではないノルマが達成できない社員には、エキセントリックな叱責が待っている。そろばんを使って叩く。ずっと立たされる。妻も並べて上司が叱責するなどの姿があり、それを回避するためには、背広が汗で塩を吹くほど歩き回り、涙や土下座の営業活動は当たり前。その苛烈なノルマによる営業活動と毎日繰り返される叱責のために、本作品が発刊された頃までは、新入社員の半数近くは1年で脱落する状況だった

 損失補填問題などに触れたため、当初は本作品の取材に協力的だった野村證券も、(大蔵省の意向もあり)日本での出版にはかなりの圧力をかけて、「ストレートなノンフィクションで「野村のすべて」を書くことはとても難しく」と解説を入れなければならなかった。そして日本語版は発刊された年に、損失補填問題が明るみに出ることになる。

 

nmukkun.hatenablog.com

*日本側から描いた「ガリバー証券」