小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

1 覇剣・武蔵と柳生兵庫助 鳥羽 亮(200l) 

【あらすじ】

 「遅れてきた英雄」。宮本武蔵は13歳の時から幾多の決闘に勝ち続け、戦国の世の侍大将を夢見る。だが16歳で参加した関ヶ原の戦いでは、敗軍の宇喜多秀家の軍に加わり、任官にありつけなかった。戦乱の世は収まり、武蔵は自らの剣で相手を殺める「殺人剣」として剣技を極めようと、修行に明け暮れる。21歳で京都の一大勢力名門岡一門の100人を超える門人を1人で片付け、更には「巌流」として名高い佐々木小次郎巌流島の戦いで倒して名を高める。

 

 しかし命がけで築いた名声に対し、細川家の申出は300石。軍学にも優れ一介の武芸者を超えたと自負のある武蔵にとって、剣術指南役の小次郎と同じ300石は受け入れられない待遇だった。そんな武蔵の目は、剣術指南役でありながら、旗本として徳川家の幕閣でも力を持つ柳生宗矩を次の標的に捉える。柳生新陰流の総帥を試合で打ち破り、自らがその地位を取って変わるために、江戸に向かう。

 

 柳生新陰流は、「剣聖」と呼ばれた上泉信綱から新陰流を学び、その奥義「無刀取り」を会得した柳生石舟斎宗厳が新たに工夫したもの。宗厳は負傷した長男の子、柳生兵庫助利巌に天賦の才が備わっているのを見抜き、柳生新陰流相伝する。兵庫介の評判を聞いた加藤清正から3,000石で肥後に招かれると、周囲の妬みを圧倒的な強さで黙らせる。しかしキリシタン一揆を鎮圧するために、女子供も手をかけたことに後悔し、柳生の「活人剣」を極めようと加藤家を致仕、廻国修行の旅に出る。修行を2年も過ぎたころ、尾張徳川から500石で招かれて、石高にこだわらず身を落ち着ける決意をする。

 

*「剣聖」上泉信綱が高みを極め、新陰流を柳生宗厳に伝える物語です。

 

 江戸で柳生宗矩との対決の機会を待つ武蔵。沢庵禅師が間に入って対面を果たすと、宗矩は新陰流奥義の無刀取りを見せ、宗矩の剣は「活人剣」として、考えの異なる武蔵に対決を諦めさせる。しかし武蔵は、柳生新陰流の本流は尾張の兵庫助であることを知り、改めて剣での戦いを目指し尾張へと向かう。

 

 尾張で兵庫助は、やはり別流派からのやっかみを受けながらも、尾張藩徳川義直に新陰流を伝授していた。そこに武蔵からの試合の申し込みが来る。負ければ尾張を去るだけとの心境の兵庫介だが、主君義直は兵庫助を手放すことを惜しみ、名誉ではなく自らの立場を訴えて、兵庫介が試合を行なうことを禁じる。

 

 しかし剣の頂を目指す両人に、戦いは避けられない。激しい気合いもろとも、獰猛な獣のように相手を叩き潰す「殺人剣」の宮本武蔵と、静かな湖面から昇る龍のような「活人剣」を有し、水月の位(構え)を持って対峙する柳生兵庫助。時が過ぎる中、突然剣気が大気を割き、2人が動く。

 

【感想】

 宮本武蔵尾張を訪れた際、城下で柳生兵庫助利厳とすれ違い「久々にて活きた人を見た。あなたは柳生兵庫(利厳)ではないか」といい、利厳は「そういうあなたは宮本武蔵ですね」と答えたという言い伝えがある。武蔵は利厳の屋敷に滞在して共に酒を飲んだが、剣を交えることはなく別れたという。

 宮本武蔵となると吉川英治の傑作が定番だが、ここでは剣の道での「両雄」をまとめて描かれている本作品を取り上げた。宮本武蔵については吉岡一門との対決や巌流島の戦いなど、後世にも有名な挿話を交えて進めていく。

 

宮本武蔵というと、本来はこちらが「定番」ですね (^^)

 

 柳生家は複雑だった。柳生の里を支配していた柳生石舟斎宗厳だが、後継を託す予定だった長男は戦いで負傷してしまい、また主君の松永久秀も滅亡して、武家としても凋落した。子供たちは家名を復興しようとして、早くから家を出て家運を開こうとする中で、5男の宗矩が徳川家に仕えた。徳川がそのまま天下人になることで急速に家名を高めるも、父宗厳から「柳生新陰流」の指導を直接受けた訳ではなかった。

 そのため柳生の「家」は江戸に引き継がれ重きをなすが、柳生新陰流の本流は、尾張に出向いた嫡男の子の柳生兵庫助利厳に、「尾張柳生」として継承される。柳生では「剣士」として最強と謳われた柳生兵庫介を、本作品において武蔵の相手に配置した。

 「殺人剣」と「活人剣」、「動の剣」と「静の剣」。辿るルートは異なるも、剣の道を究めようとすると、辿り着く頂は1つ。章立てで「武蔵」と「兵庫介」に分けながら、共に名を高めようとしる剣士たちに狙われては凌ぎながらも、徐々に運命が交じり合っていく。

 試合の結果はここでは伏せるが、精神的な境地では柳生兵庫助が高みにあると思わせる描き方になっている。武蔵は権勢欲、名誉などに対して強い執着を露わにして、戦国の幕が閉じる時に生まれた「遅れてきた英雄」の悲哀も感じさせる。実際に武蔵の剣をみた尾張藩徳川義直は、その実力を認めながらも正当な剣ではないとして、受け入れを拒否する。

 それは既に、剣が戦国の武術から「剣の道」に変化したことの表れであり、柳生新陰流はそんな時代の変化を先取りしていた。但し武蔵も遅ればせながら、内心の巨大な葛藤が剣術を磨き己を磨く中で濾過されて、悠然とした画材の中に、緊張感が溢れんばかりに吹き出てくる絵画を生みだす一方、まるで宗教の経典のような「五輪書」を著わす境地に辿り着く。

 

 塚原卜伝上泉信綱剣の天地)、北畠具教(狂気の父を敬え)、足利義輝剣豪将軍義輝)、細川幽斎幽斎玄旨)らに伝えた「一の太刀」。そして上泉信綱が創始した新陰流を柳生宗厳相伝すると、新たに柳生新陰流の流派を興し、こちらは幕府と結びついて江戸時代に全盛を迎える。

 戦国から江戸初期に至る剣豪の系譜を、ここでまとめてみました。

 

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