小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

8 奥州戦国に相馬奔る 近衛 龍春 (2020)

【あらすじ】

 平将門を祖とし、源頼朝の挙兵に参じてから相馬を400年支配した名門の相馬氏。源氏が優れていた馬術に引けを取らないように、代々騎馬隊に磨きをかけてきた。相馬義胤の代になると伊達政宗が奥州の争乱の中心となり、領地争いが盛んになる。

 

 相馬に対し、高飛車に臣従を求める政宗。対立する豪族たちを「撫切り」や裏切りエ作を行い、覇道を邁進する。相馬と同盟していた田村家からは、愛姫を嫁に迎えて両家にくさびを打つ。強引な政宗のやりロに義胤らは反発し、佐竹義重の応援を受けて、人取橋で政宗と対決する。3倍の兵力で撃退させるが、伊達軍は決死の覚悟で撤退し、政宗の命を奪うことはできなかった。

 

 その後秀吉の天下が定まり、私戦を禁じる惣無事令が発せられた。しかし政宗は命令を無視して名門盧名家を滅亡に追い込み、続いて相馬領に攻め入る準備を始める。小田原に参陣を求める秀吉に対し、義胤は身動きが取れなかったが、当の政宗は滑り込みで小田原に出向いた。小田原参陣をしなかった他家が改易される中、相馬家は石田三成のとりなしで本領の4万8千石の領地を安堵される。また検地から領国経営まで親切に教えを受け、三成の恩情を多とした義胤は、嫡子に三成の一字を貰い、三胤と名付ける。

 

 伊達家との紛争も収まり、義胤が領国経営に精を出す中、秀吉が薨去し三成と徳川家康の対立が勃発する。三成に恩義がある相馬家は、隣国の佐竹義宣と共に徳川方の上杉征伐には加わらず静観する。ところが関ケ原の戦いは僅か半日で終り、佐竹家は出羽に減転封され、相馬家は改易の沙汰が下りる。嫡子の三胤(改名して利胤)は、微かな伝手を頼りに本多正信に対してお家存続運動を行なう。望みは薄いと思われたが、幸運も重なり奇跡的に改易は撤回されて、減封もなく本領安堵された。

 

 *相馬家と周辺の関係図(本作品より)

 

 しかし相馬家に更なる試練が襲う。1611年、「海嘯(よだ)」と呼ばれる大津波が奥州の太平洋側を襲う。海岸線から3キロに渡って人や牛馬を飲み込み、田の多くは海水に浸り当面使い物にならず、収穫も大幅に減少する。農民は悲観して逃散するが、義胤と利胤は領国を立て直すため、命を削る。

 

 しかし5年後、またしても津波が襲い、領民たちは皆絶望の淵に立たされる。幕府のお手伝い普請も重なり、改易を回避した利胤は必死になって当主の務めを果たすが、心労も重なり義胤に先だって病死してしまう。義胤は孫の2代藩主、虎之助の後見役となり、隠居した後も藩政に尽力した。孫に藩政の全てを伝え、2代将軍秀忠にも先立たれた後、88歳の長寿で没する。

 

 遺言は「屍に具足を着せ、北に向かって葬るように。死して相馬の守り神となろう」。最後まで伊達政宗を敵と見做したが、その政宗は翌年70歳で亡くなる。

 

*毛利、島津と続いた「戦国サバイバルシリーズ」の第3弾。主人公の南部信直は、「天を衝く」で取り上げられ、また「海嘯(津波)」から復興を目指す姿も共通しているため、ここでは同じ作者の本作品を取り上げました。

 

【感想】

 戦国末期、奥州に伊達政宗が現れて、周辺に大きな影響を与える。相馬家は領土が隣接して、親の代から紛争が絶えなかった。しかも伊達家の動員能力は相馬家の10倍もある。それでも相馬家は周囲の豪族と信義に基づく付き合いを重ねて、また「義」の人、佐竹義重の力も借りて、政宗を常に敵として対時した。

 相馬義胤は、女性たちが残る城への攻撃は控え、約束は違えず、参戦も領土拡大を目的とはしない。そのためか政宗の描き方は完全に「敵役」。自分本位の考え方で、妻の愛姫とも仲違いしていると描かれている。

 そこに秀吉と家康が現れて、それぞれ対応を迫られる。相馬家は秀吉、家康に対して共に初手を誤ったにも関わらず、改易の危機を切り抜けた希有な例となった。秀吉からは小田原に参陣しなかった奥州の大名の中で、唯一といっていい存在で本領を安堵された。本作品では理由を石田三成が秀吉の誤ちを認めさせないため、としているが、判然としない。家康からは一度は改易を命じられながらも、嫡子利胤本多正信に対して必死の懇願を行い、改易を撤回させたばかりか減封も免れる。

 ちなみにこの時、競馬で判定すべく競争するが、利胤の乗った馬が鉄砲の音に驚いて大きな穴に人ってしまい、それがかえって戦場の習いに相応しいとされて改易が撤回され、競馬の「大穴」の語源となったという。但し本作品ではこの挿話は取り上げず、相馬家の祖、平将門の怨念が味方したと収めた。その方が、新たな関東の支配者となる家康に相応しい判断かもしれない。

 あきらめずに最後まで尽力し、何とか改易の危機を脱するが、そこで相馬家の苦難は終わらない。慶長の大津波。その400年後に発生する東日本大震災並みの津波が押し寄せ、内陸3キロまで海水が押し寄せて、相馬家の領土の約半分が海水に浸される。

 そこから始まる、血が惨め出るような辛苦を経ての復興活動は、東北の地に限らず日本各地で400年後の現代まで繰り返される。

 平将門以来1,000年続く「神事」相馬野馬追東日本大震災やコロナ禍などの苦難に遭っても、義胤と利胤の親子が命を削って乗り越えたかのように、現代も続いている。

 

 

 *相馬野馬追(相馬市公式ウェブサイトより)

 

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