小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

13 天地人(直江兼続) 火坂 雅志(2006)

【あらすじ】

 越後魚沼郡に生まれた樋口与六兼続は、上田衆として同郷の上杉喜平次景勝を主君として仕えていた。跡取りがなかった上杉謙信は、甥の景勝を養子に迎えると言うが、謙信には既に北条氏康の七男で美男子と評判の上杉三郎景虎が養子となっている。その謙信は突如脳卒中で倒れ、後継者を指名しないまま49歳で亡くなってしまった。これにより「御館の乱」と呼ばれる家督争いが勃発する。

 

 三郎景虎は生家の北条家と、同盟を結ぶ武田家の両家の支援を背景に、家中で勢力を伸ばしていく。兼続は不利な局面を打開するため、信長に敗れ焦っている武田勝頼に、東上野の割譲を材料にして交渉し、同盟を結ぶことに成功した。対して三郎景虎は武田の支援がなくなり、北条が雪の季節に撤退したことも加わって徐々に劣勢となり、26歳で自害する。

 

 景勝が当主となると上田衆が周りを固め、その中心の兼続は名門直江家を継ぎ、直江兼続として家老に抜擢される。その間織田信長は武田軍を滅ぼし、次の標的を上杉家に向ける。東越中から、北信濃から、上野からも攻められて上杉家は絶体絶命の危機に瀕するが、本能寺の変が起きて窮地を脱した。

 

 信長の後継者に躍り出た羽柴秀吉から上杉家に、同盟申入れの意向が届く。秀吉、石田三成上杉景勝直江兼続の四人で会談するが、そこで三成と兼続は意気投合し、豊臣と上杉は主従含めて信頼関係で結ばれる。後に上杉家は蒲生氏郷急死の後釜として関東の背後の会津に移封され、また五大老の一角の立場も務めて、領国でも中央政界でも、家康の監視役を託される。

 

  直江兼続(武士道美術館より)

 

 秀吉が薨去し三成と家康との対立が激しくなる中、上杉景勝会津に帰国して、移封された領地経営に力を入れる。それは家康との決戦を控え、領地を城塞化するものだった。それを見た徳川家康は、上杉家に対して詰問状を発するが。これに対して兼続は、家康を痛烈に批判する「直江状」によって挑戦状を叩きつける。挑発に乗った家康は、兼続の読みとおり、上杉討伐で東征する。

 

 そこに石田三成決起の知らせが届いた。兼続の計略は、上杉軍が徳川軍の先鋒を叩いて身動きとれない状態にして、その後に三成が決起するという構図だった。しかし家康の軍は、上杉軍が食らいつく前に西へと反転した。これを進撃することを兼続は景勝に進言したが、「背後から追い打ちをかけるのは上杉の義ではない」と景勝は言い切る。

 戦機は逸した。そして関ケ原の戦いが1日で決したとの知らせが飛び込み、万事休す。ここで上杉家は矛を収め、米沢30万石の減知を呑んだ。

 

 

 直江兼続が支えた主君、上杉景勝(伝国の杜上杉博物館より)

 

【感想】

 上杉謙信が語ったとされる理想像、「天の時、地の利、人の和」が整った大将を目指す直江兼続と、主君上杉景勝の物語。豊臣秀吉からは、陪臣ながら伊達政宗の家臣片倉小十郎景綱や、毛利家の小早川隆景と共に、天下の仕置きができると言われ、主君景勝とは別に米沢30万石を秀吉から与えられた武将。そして秀吉の知恵袋、石田三成と「肝胆相照らす仲」となり、共に徳川家康の野望をくじこうとする。

 「愛」の兜でも有名になった直江兼続。作者の火坂雅志新潟市出身。野球部の時、帽子に「愛」と書いて監督から怒られたが(そりゃそうだww)、反発した火坂は同郷に愛の兜をした武将が居たことを知り、俄然興味を持ったという。

 作者は愛の兜を、当初は謙信が信奉する毘沙門天の「毘」に対して、愛宕大権現や愛染明王などの戦の神から取ったと考えたが、謙信が「義」とともに大将の心得を「慈愛」と語っていることを知り、現在の意味に近い「愛」に通じるものと捉えた。

 

 

 *大河ドラマ天地人」で、直江兼続を演じた妻夫木聡と「愛」の兜(NHK)。

 

 「直江状」は現代にも残る颯爽とした内容だが、上杉家は120万石から30万石に減封され、更に「末期養子」で14万石にまで減知となった(赤穂事件で有名な吉良上野介の息子が急遽養子になり、家名存続が許された)。財政破綻となった上杉家では、上杉鷹山が名誉回復するまで、長らく直江兼続は忌み嫌われたという。

 兼続も徳川幕府重臣本多正信の子本多政重を敢えて養子にとる忍従策を取る。その後政重は加賀前田100万石に迎えられて、直江家の家臣も共に移る。兼続は66歳で迎えた死をもって、絶家を決断することで「行政改革」を実践した

 

 伊達家発祥の地、米沢を授かる兼続だが、伊達政宗との挿話は多い。政宗は当時珍しい大判金貨を諸大名に回覧させたが、陪臣の兼続は素手ではなく扇子で受け取り、「謙信公から采配を預かる手に賎しき物は触れさせず」と言って投げ返した。

 兼続が江戸城政宗に素通りしたことを咎められると、兼続は「いつも(負けて逃げる)後ろ姿しか拝見したことが無かったため、一向に気がつきませんでした」と、かなり刺激的な返答をしている。

 

 真田昌幸上田城で徳川家と戦うために(第1次上田城の戦い)、子の幸村を上杉家の人質に出す。この幸村を直江兼続が丁重に出迎え、上杉家の「義」を説いて幸村を感動させる。そして徳川家康上田城攻めを決断したとの知らせが来ると、兼続は人質の幸村を上田に戻すことで「義」を実行する

 兼続は大坂の陣で、兼続が伝えた「義」を真田幸村が実践する姿を見届けてから、死を迎えた。

 

*「御館の乱」で後継を争った、上杉三郎景虎の物語。こちら側から見た物語も秀逸です。

 

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