小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

4-2 臥竜の天②(伊達政宗)火坂 雅志(2007)

   Amazonより

 

【あらすじ】

 小田原で秀吉の勢威を見せつけられて臣従した翌年、蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆の平定を命じられるが、実は政宗一揆を煽動していたことが露見する。喚問された政宗は死装束に身を包み、金色の磔柱を先頭に持たせて上洛する「開き直り」を見せる一方、書状は鶺鴒の家紋に本物ならば目に針を入れると弁明する。命は許されたが本拠地の米沢地区から葛西・大崎地区に移され、懲罰含みで一揆を煽動した政宗が鎮圧を命じられる。領国も72万石から岩手沢城58万石に減封された。

 

 政宗は将来を見越して秀吉の甥の関白秀次と厚誼を通じるが、秀吉に子が生まれると秀次の存在は邪魔となり、切腹を命じられ政宗も詰問を受ける。折しも秀吉に取り上げられた政宗の愛妾美夜が実は大崎一揆の残党で、政宗に野心ありと秀吉に吹き込んでいるという。そんな時期に蒲生氏郷が亡くなり、会津には天敵とも言える上杉景勝が入府する。上杉家の執政直江兼続と秀吉の懐刀石田三成は気脈を通じ、政宗を更なる窮地に追い込む。次々と追い込まれる政宗に業を煮やし、勇将伊達成実は決起を促すも煮え切らない政宗と衝突し、成実はそのまま出奔してしまう。

 

 秀吉の死後、政宗徳川家康政宗の長女・五郎八(いろは)姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させ、徳川家との絆を固くする。家康は上杉景勝討伐の軍を発すると、政宗に対しては上杉領となっていた米沢の旧領を復す旨の書状(「百万石のお墨付き」)を送り、北方から上杉包囲網の一角を担う。

 

 南方の家康軍が東に反転し関ヶ原の戦いが勃発。上杉軍は北の最上氏の領内に侵入するが、政宗と最上の連合軍は守備に徹した。関ヶ原の戦い終わると上杉軍に攻め込むが思い通りにいかず、また南部領で一揆を扇動したことが発覚してしまう。黒脛巾組の活躍で証拠は奪還してこのことは不問にされたが、100万石のお墨付きは反故にされてしまった。

 

 

 NHK大河ドラマ中興の祖となった「独眼竜政宗」。片眼でも「眼力」があるという理由で当時駆け出しの渡辺謙が主役に抜擢されました。

 

 関ケ原の戦いの後、徳川家康の許可を得た政宗は居城を仙台に移す。政宗エスパーニャとの通商を企図し家康の承認を得ると、支倉常長ら一行をメキシコからエスパーニャ、そしてローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。しかし使節の真の目的は、ローマ教会からキリスト教徒の軍勢を日本に派兵させて日本のキリシタンと糾合し、家康の子松平忠輝を旗頭として天下を奪おうとするもの。

 

 ところが忠輝は大久保長安の不正に関わったとして蟄居を命じられる。大坂の陣政宗は家康から、秀吉に近いため廃嫡した長男秀宗に伊予宇和島10万石の新封を与えるが、その代わり異国の軍勢を引き入れてまで天下を望むのは諦めろ、と諭された。

 

 全てを家康に見通されていた政。その家康が死の床にあるとの報が入った。ようやく許された面会では、場合によっては家康と刺し違え、仙台の家臣たちは幕府迎撃の作戦を実行される手はずになっている。しかし家康の言葉は「江戸の将軍を頼む」。婿の忠輝は見捨てて、天下への野望は矛を収めろ、との意味だった。最後の最後まで心の内を見透かされていた政宗は全てを諦め61歳で隠居し、70歳で亡くなる。

 辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。

 

 

【感想】

「遅れてきた英雄」伊達政宗が奥州の覇者となったのは、既に天下が定まったあとだった。蘆名氏を滅ぼして150万石の領主となった時は、豊臣秀吉が惣無事令(私戦禁止令)を発令した後であり、秀吉と誼を通じていた蘆名氏を滅ぼすことで、秀吉の怒りを買っていた。ここで「開き直り」を示して秀吉から見込まれて、命は助けられる。領地は半減したが、ここから「もう1つの天下取り」が始まる。

 一揆を煽動して乱を起こし、そこで知行を増やそうとする。甥の関白秀次に天下を統べる能力がないと見切るや、豊臣家の内紛を利用しようとする。関ヶ原の戦いで家康と組みながらも「火事場泥棒」を試みる。そして極めつけはローマ法王を巻き込んだキリシタン糾合による天下奪回計画。

 それがことごとく露見して、なんども天下人から詰問されては「開き直り」をして命の切所を潜り抜ける様子を描いている。そこには「天下人」と政宗の差が、語らずとも示される

  支倉常長東京国立博物館

 

 司馬遼太郎の名作「項羽と劉邦」の後半に、蒯通(かいとう)という弁士が登場する。漢が統一した後邪魔になった韓信が処刑されて、その軍師であった蒯通も、韓信を煽動した罪で死罪を命ぜられる。しかし蒯通は劉邦に対して「あの時代に天下を望むのは罪になるのか。あの時たくさんの者が天下を望んだが全て死罪にするのか」と弁明して許される。命は助かった蒯通だが、その後「天下を動かすために弁論を学んだのに、たかがおのれの命を救うために役立っただけだ」とつぶやく(下巻213ページ)。

 政宗は天下が定まろうとしても、天下を望み続けた。ところがその手法は一揆の煽動やキリシタンの糾合によるもので、信長・秀吉・家康と同じく中世の社会構造を破壊して、天下に新たな体制を打ち立てる「グランドデザイン」があったのかと考えると、疑問が残る

 厳しい言い方をすれば、家康と政宗の差は信長と武田信玄の差であり、秀吉と明智光秀の差でもある。そして得たのは外様大名第3の封土(前田家、島津家に次ぐ)。果たして時代に恵まれれば天下を望めたのか、それとも・・・・

nmukkun.hatenablog.com

*こちらのコラムでも、蒯通について触れさせていただきました。

 

 家康の言葉は、蒯通と同じように自分の野望が終ったことを「否応なしに」納得させることになった。その心境は辞世の句、そして高名な四言絶句にも現われている。

馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦す所 楽しまずして是を如何にせん