小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

17 小説 松尾芭蕉 中津 侑子(2019)

   *Amazonより

 

 明智光秀が詠んだ「時は今 雨がしたたる 五月かな」で有名な連歌の発句。ここから複数の人間がおよそ100首読みつないでいくが、この発句が独立して俳諧となった。とは言え当初は言葉遊びの域を出ず、大坂では同世代の井原西鶴が一昼夜で2万3,500句を詠む記録を生み出すが、内容ではなく数だけが取り上げられるのみ。これを松尾芭蕉は「芸術」に高めた。

 

 「ざらしを心に風のしむ身哉

 伊賀国から江戸に出て俳諧の道を歩んでいた芭蕉は、井原西鶴が2万3,500句を詠んだ翌年、40歳で標記の句を詠んで「野ざらし紀行」と名付けた旅にでる。野ざらしとは「しゃれこうべ」のことで、金銭的にも余裕のない芭蕉は、旅の途上で命が尽きてもやむを得ない覚悟を胸に秘めていた。この旅によって芭蕉の俳句は神韻を帯びた作風となり「蕉風」と呼ばれる作品を数多く生み出す。

 

 「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音

 野ざらし紀行から戻った芭蕉が詠んだ句。蛙は和歌や俳諧では「鳴く」ものとされていたが、それを「飛ばせる」ことで従来の固定観念を取り外した。また俳人長谷川櫂氏の著「古池に蛙は飛び込んだのか」では、「古池」と「水の音」とわざわざ水を2つ重ねたこと、古池「に」ではなく「や」と切れ字を使ったことに着目。そして蛙の飛び込む水の音を聞いて、芭蕉の脳裡に静かにたたずむ古池が浮かんだとして、「蛙は古池には飛び込んでいない」と導き出している。

 

  芭蕉曾良ウィキペディア

 

 「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

 「五月雨の降(ふり)のこしてや光堂

 芭蕉は古人の歌人に憧れ、旅をして俳諧を詠む生活を求めた。鹿島詣、故郷伊賀から関西の名所を回る旅を重ねたあと、西行500回忌の1689年、45歳の時に弟子の曾良を伴い「おくのほそ道」の旅に出る。平家物語の中でも源義経と義仲を好む芭蕉は、平泉で杜甫の「国破れて山河あり」を思い起こし、「城春にして草木深し」とした歌を「夏草」と変えて、自然の力強さと人間の儚さの対比を強調させた。それでも人間の手による光堂は、自然の中でも風雪に耐えていると、「対」として並べている。

 

 「閑かさや岩にしみ入る蝉の声

 芭蕉奥羽山脈を越えて現在の山形県に入る。立石寺は峻厳な岩が重なる高所にあり、所々に洞窟がある。本来は騒がしい蝉の声も、静かな山中では閑寂な空間を強調し、そんな空間に心が溶け合う世界を芭蕉は詠む。

 立石寺立石寺HP)

 

五月雨をあつめて早し最上川

 立石寺から1日に満たない行程にある大石田町で逗留した時に詠んだ句。五月雨は現在の梅雨を表わす夏の季語。暑さで名高い山形の地で「涼」を運ぶ最上川を詠むも、のちに当初詠んだ「集めて涼し」を「早し」と変えた。日本三大急流の1つと言われる最上川(残りは保津川富士川だが、最上川は「緩」と「急」が長い流れの中で交互に現われ、「緩」から「急」に変わる情景を詠んだもの、と私は思っている。

 

*ちなみにNHKのドラマ「おしん」で幼少期のおしんが両親と別れた場所(ロケ現場)は、大石田町よりも上流。

 

荒海や佐渡によこたふ天の川

 旅は山形県から新潟県へと、日本海沿岸を伝って南下する。出雲崎では日本海越しに佐渡島が望めると聞き、天と海と島を結ぶ雄大な情景を「想像して」詠んだ。空に淡く光る天の川を背景に、夜の日本海の荒波やかすかに浮かぶ佐渡の黒々とした島影が脳裡に浮かんでくる。そして本作品では、旅の同行者曽良が幕府の隠密てはないかという疑いを持ち、流人地である佐渡を、せめて銀河で本土と結んでやりたい気持ちも託したとしている。

 

出雲崎から見た天の川。右には佐渡島毎日新聞

 

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

 おくの細道から5年後、赴いた大坂で病の床につき、思いがけず辞世の句となった。「旅に病み」ではなく字余りとしたことで、無念の気持ちをがにじみている。そして芭蕉が憧れた旅に果てた先人たち。李白杜甫西行、宗祇らの跡を慕う魂のさすらいを「夢は枯野をかけめぐる」と詠む。自在に「かけめぐる」には「夏草」ではなく「枯野」でなければならないが、「枯野」はまた春を待つ気持ちも表れている。

 

 

 *「おくのほそ道」の紀行図(芭蕉翁顕彰会より)

 

 西行藤原定家は、色恋や心の機微を詠う和歌に幽玄をもたらす。世阿弥は民のための娯楽であった猿楽を、能という芸術に高めた。千利休は手軽な茶道を「わび・さび」の境地を取り入れて、高みに到達させた。そして芭蕉俳諧を言葉遊びから、さび、しおり、などを主体として、幽玄・閑寂の境地を求める「蕉風」を確立させる。これは源氏物語に繋がる、本居宣長が解明した日本人が持つ「もののあわれ」に通じるものと感じる。

 幽玄を確立したあと、芭蕉は「軽み」を提唱している。「深きに入る前の浅さと、深きに入ったあとの浅さは違う内容で、後の浅さが軽みです」(253頁)と書かれている。この「さらりと言う」感覚の説明は難しいが、私には芭蕉の句よりも、

 

 与謝蕪村の 「春の海 ひねもすのたり のたりかな」、

 小林一茶の 「名月を 取ってくれろと 泣く子かな」、

 正岡子規の 「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」 らを思い浮かべる。

 

 始めに芭蕉ありき。芭蕉あってこそ俳諧の世界が現在まで続き、世界に広がった。

(私に「句心」はありません。本作品を参考にして自由に書かせていただきましたが、意見が異なる方も「数多く」いらっしゃると思います。ご容赦ください💦)

 

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