小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

13 光琳ひと紋様 高任 和夫(2012)

   楽天Booksより



【あらすじ】

 近江浅井家家臣の流れを汲み、京都の呉服商「雁金屋」の次男として生また市之丞 (後の尾形光琳)は、少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しんだ。また当時デザインの先端を行った家業の呉服を幼少期から親しむことで、弟の権平と共に美術眼が養われる。祖母が本阿弥光悦の姉にあたる関係で家業の商売に繁栄をもたらし、その芸術的センスも受け継がれていた。

 

 しかし市之丞は真面目に絵を学ぼうとしないし、商売の才もない兄藤三郎に代わって後を継ぐ意志もない。親も諦めて商売は藤三郎に後を継がせ、商売以外の財産を権平とともに相続した市之丞は、遊興三昧の日々を送る。対して真面目な弟の権平は浪費はせずに書や参禅を好み、野々村仁清の影響を受け陶芸に打ち込み、京洛の北西(乾)の方角に窯を設けたことから「尾形乾山」と名乗る。

 

 市之丞は女遊びで子を孕ませ追いかけられるも、身を固める気持ちはさらさらなく、財産と使い果たすと、借金をしては遊びを繰り返す。しかし長兄藤三郎が継いだ雁金屋は、大名貸しの多くが貸し倒れ遂に廃業となり、藤三郎は江戸に逃げたとの噂が届いた。享楽な生活の中で、気が向いたら絵を描いては小銭を稼ぐ生活をしていた市之丞だが、収入の道が断たれて真剣に絵と向き合わざる負えなくなる。

 

 光琳と改名した市之丞は、公家とのつながりから「法橋」という、絵師に与えられる位を得ると、昔から好きだった伊勢物語を題材にして燕千花(かきつばた)を題材とした絵を構想する。その構想は金箔を下地に群青と緑の2色のみで描き切るものだが、金箔に対して2色では弱いため、弟乾山のアドバイスで陶芸に使われる岩絵具を用いて、金箔に負けない存在感の燕子花を描いた屏風が完成する。

 

  ちょうどその頃光琳を知った、商人であり役人でもある中村内蔵助がその絵を見て息をのむ。勘定奉行荻原重秀の元で貨幣の吹き替えをして景気がいい内蔵助は、生涯光琳の支援者となっていく。内蔵助が江戸に戻ると光琳も後を追いかけるが、大名に仕えるも小禄でかつ宮仕えは光琳に合わず、5年程で京都に戻る羽目となる。そして弟が作った焼き物に絵付けをするなど、気ままな創作活動をしていた。

 

 

 紅白梅図屏風。何とも不思議な構図ですが、そのバランスに次第に取り込まれます(MOA美術館)

 

  しばらくすると荻原重秀が失脚したとの噂が流れる。配下の中村内蔵助は、重秀が政道を私にしない性格を知っていたので安閑としていたが、引き継いだ新井目石が執拗に重秀を失脚させようとし、その手は内蔵助にも及ぼうとしていた。財産没収を覚悟した内蔵助は、光琳菅原道真が愛した「梅」を題材にした作品を製作するよう求める。光琳は試行錯誤の上、老木に咲く紅白の梅が川の流れによって咲かれてしまう運命を、自分の内蔵助を重ねた「紅白梅図屏風」を完成させる。

 

 その絵の意を知った内蔵助は、満足して絵を光琳の元に残し、取り調べが待っている江戸に向かうため光琳と別れを告げる。それは「元禄の世」の終わりとも重なっていた。

 

 

 

【感想】

 戦乱によって破壊尽くされた戦国の世が終わり、豪壮な安土桃山文化が花開いた京洛。茶道は堺から発祥したが、絵画は戦乱の中かろうじて京で命脈を保ち、狩野派を中心に息を吹き返して隆盛を迎える。その後狩野派は徳川の世となり活躍の舞台を江戸に移すが、元禄時代は文化の先端はまだ京にあった。そして江戸初期には、書家、陶芸、漆芸、出版、茶の湯、刀剣などマルチに精通した本阿弥光悦が芸術村(光悦村)を築き、「風神雷神」で高名な俵屋宗達を初め、数々の文化人を集った。

  その後に京で最先端だった「デザイナー」を有する呉服商に生まれた尾形光琳伊勢物語源氏物語など、王朝文化を題材にした画作を行った光琳だが、その私生活は破綻していた。ところがそんな人生が様々な事情で収斂されていき、そこから絞り出されて「傑作」が生みだされる。

 

*「燕子花図屏風」から発展させたと思われる八橋図屏風(ウィキペディア

 

 本作品では光琳が「開眼」したとされる初期の傑作「燕子花図屏風」と、晩年の創作活動の集大成とも言える「紅白梅図屏風」の創作を描いているが、個人的には伊勢物語をモチーフとした「燕千花」から発展したと感じる「八橋図」と、その創作を見事に立体化した「八橋蒔絵螺銅硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)」に心惹かれる。特に「八橋蒔絵螺銅硯箱」の、屏風を立体化したその発想は、自由奔放な性格でなければ生み出せない作品。それは光琳が影響を受けたとされる本阿弥光悦の「舟橋蒔絵硯箱」の影響もあったのだろうか。

  そんな光琳も、俵屋宗達が描いた「風神雷神」を参考にして勉強し、自分なりの「たらしこみ」の技法を使い、また「光琳文様」と呼ばれる柔らかな線で大胆な輪郭を描き、その中に模様を描く手法も創り独特の世界観を作り上げた。乾山は冷徹に宗達光琳の「風神雷神」の違いを述べているが、その違いは果たして感覚によるものか、それとも人生によるものか

 

  

 *「八橋図屏風」を立体化して造型する発想はどこから来たのか。光琳の「天才性」が生み出した「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(ウィキペディア

 

 作者高任和夫は、江戸の経済政策を捉えた作品を数多く上梓して、その中で荻原重秀を描いたものもある。積極経済から新井白石の手による緊縮経済に移るころにも重なり、元禄の世の終焉を、尾形光琳という象徴をもって描いた。

 

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