小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

12 レオン氏郷 安倍 龍太郎(2012)

【あらすじ】

 南近江の名門六角家に仕える蒲生家は、織田信長から上洛に際しての協力を呼びかけられる。主君の六角承禎は反発するが、蒲生家の嫡男鶴千代は岐阜で織田信長を直接見て、信長に臣従することを決意する。

 

 自ら人質となった鶴千代に対して信長が理由を問うと、信長は世界を見て戦をしていると答える。生意気な物言いに怒る信長に対しても堂々とした鶴千代を見て、信長は一転自分の太刀持ちに採用する。信長の間近に仕えることで、鶴千代は信長の考えや戦場でのかけひき、武将との関係を知ることになる。

 

 鶴千代は14歳になると元服して、信長の職名、弾正忠から忠三郎と名乗り、その足で伊勢の北畠征伐を初陣とする。当主の北畠具教は名だたる剣豪でもあり、士気は高い。案の定城攻めに苦戦するが、忠三郎は1人相手の側面で待ち伏せして、名高い剛勇の武士を討ち取って、織田軍の面目を保った。忠三郎を認めた信長は娘を嫁がせ、わずか1年で人質から信長の婿という立場に変化する。

 

 その後忠三郎は各地を転戦するが、長島の一向一揆では男女も年齢を問わずに「撫切り」する戦いに動揺する。そんな気持ちから、1つは千利休の茶道に向かい「利休七哲」の筆頭まで極める。もう1つは高山右近の導きでキリスト教に向かい、入信してレオンの名を受ける。

 

  蒲生氏郷ウィキペディアより)

 

 そんな折に信長が本能寺の変で自害する。京に近い忠三郎にも光秀からの勧誘があるが、これは断固として拒否。安土城から逃げた帰蝶始め信長の縁者たちを匿い、明智軍の攻撃を抵抗していると、秀吉が「大返し」で明智光秀を破り、信長の後継者に名乗りを上げた。忠三郎は秀吉が信長の後継に相応しいとして臣従し、秀吉の天下統一に寄与する。氏郷と名を改めた忠三郎は、関東に移封された徳川家康の抑えとして、会津91万石への転封を命じられる。

 

 大幅な加増だが、秀吉が氏郷を中央から体よく遠ざけた噂もあり、また隣国に位置する野心家、伊達政宗の介入に頭を悩ます。政宗が裏で煽動したと思われる葛西・大崎一揆の平定に対して、動員を遅らせる政宗の背後には、秀吉の後ろ盾も感じられる。政宗から戦陣で茶を振る舞われるが、そこで毒を盛られた形跡もある。氏郷は秀吉に訴えを起こすが、政宗も金の十字架を担いで入京する派手な演出と胆力で、巧みに乗り切った。

 

 秀吉は朝鮮出兵で、明国侵略を目指すイスパニアの支援を当てにしていたが、氏郷が得た最新情報では、無敵艦隊がイギリス艦隊に大敗し、極東への支援ができる情勢でない。朝鮮出兵には理も利も見えないと氏郷は秀吉に諫言し、秀吉も講和を宣言すると約束したが、淀君懐妊の報が入り、秀吉は政権維持に欲が出て決意を翻す。

 

 その後間もなく氏郷は毒殺の疑いが残るまま40歳で世を去る。氏郷と共に朝鮮出兵を止めさせようとした関白秀次は、在らぬ嫌疑をかけられて、同年切腹を命じられた。

    

 *(左)起き上がり小法師蒲生氏郷が広めて、今でも会津地方の名産になっています。(右)鯰(なまず)尾兜。「天を衝く」九戸政実の乱で親交を深めた南部信直に、氏郷が送った「当世兜」(岩手県立美術館

 

【感想】

 元服前から頭の回転と胆力で信長から認められて、人質にも関わらず娘婿となった蒲生氏郷。秀吉が語る「10万の軍を采配させたい武将」「氏郷10万と信長5千で戦ったらどちらが勝つか」などの小話に登場する人物でもある。

 

 それだけの人物でありながら、生涯を全うできなかった

 

 本作品ではキリスト教に傾斜する様子や、千利休に浸透していく姿など、心の拠り所を求めている様子が描かれている。一本気だけでなく繊細さも感じられて、それが「信長ロス」も重なり、秀吉治政下では迷いがあったのではないか。

 そんな心象を「人たらしの名人」秀吉も敏感に感じる。山崎の合戦の後は、信長の婿として存在感がある氏郷に対して、いち早く頭を下げて味方に引き入れ、氏郷の妹を(最初の)側室に求めて誼を深める姿勢を見せる。しかしその後天下が定まっていくと徐々に氏郷を遠ざけていく。秀吉は「氏郷を上方に置いておくわけにはいかぬ」と側近に漏らしたと伝わっているが、氏郷は肥後の仕置きで失敗した佐々成政のことが頭によぎる。秀吉と伊達政宗が共謀して、新領土の統治を失敗させて、切腹を求めるのではないか、との疑念に襲われる。

 そんな性格は、ひょっとしたら信長が長生きしても、やがて精神的に追い込まれる人生になったかもしれない。若い頃底知れぬ大器を思わせた蒲生氏郷だが、秀吉の小話のような華やかな舞台を踏むことなく、しかも毒殺の疑いが持たれたまま急死した。

 

 そして嫡子秀行は家臣団の統率ができないという理由で18万石に減らされる。これは氏郷の妻で信長の娘冬姫を秀吉が側室にしようとしたが尼になったため激怒したとか、石田三成が大きな封土を減封しようと目論んだとかの噂もある。

 但し豊臣政権は関東の徳川家康の背後には、対抗できる強力な「監視勢力」を必要とし、会津の後釜には五大老の一角、上杉景勝を据える石田三成も減封で放たれた蒲生家の家臣を多く引き取り、彼らは関ヶ原で獅子奮迅の活躍をした。「噂」を額面通りには受け取れない。

 嫡子秀行は秀吉亡き後徳川家康について、その活躍で会津の60万石で戻ることができた。しかし父と同様に心労が重なり大酒飲みとなり、30歳の若さで亡くなる。

 

 上杉家、そして松平家と継承された会津の原型を作った蒲生氏郷。今は松平の影響が強く残るが、会津若松の町中を歩くと、思いがけない所に蒲生氏郷の墓が現われる。

 

  

 *街角を折れた場所に眠る、蒲生氏郷の墓(会津若松観光ナビ)

 

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