小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

6 賤ヶ嶽 岡田 秀文(2010)

   *Amazonより

 

【あらすじ】

 織田信長が本能寺で明智光秀の手によって討たれ、家臣たちは決断を迫られる。

 

 中国地方の覇王毛利家と対時していた羽柴秀吉は、頭を切り替えて毛利と和議を結ぶと、「中国大返し」で明智光秀を山崎の地で破ることに成功し、信長の後継者として名乗りを上げた。当時大坂にいた信長の三男信孝丹羽長秀は、兵の逃亡もあり光秀を攻めることができず、秀吉に合流して何とか敵討ちに参加する。そして畿内大名の中川清秀高山右近筒井順慶なども光秀から秀吉にと鞍替えを決断した。

 

 謙信亡き後の上杉家と闘っていた柴田勝は、すぐに畿内に戻ることができなかった。武田家滅亡後間もない甲斐では、本能寺の変の報が届くや地元で一揆が起きて、甲斐では原田直政が血祭りにされた。関東管領に任じられた滝川一益は、北条に攻め込まれて身1つで逃げる。

 

 敵討ちを成し遂げた秀吉は、そのまま天下人を目指す。清須会議では様々な噂を流しつつ、当日の会議では隠し玉を用意して、対抗する柴田勝家らの思惑を退けた。領地割譲では京を中心に10か国を認めさせるなど会議を自在に繰る。鼻づらを引きずり回された形の柴田勝家織田信孝は最後の手段として秀吉暗殺を決意するも、秀吉は見事に察知して逃げられてしまう。

 

 その後も秀吉の調略は冴えわたる。勝家が本拠とする越前が雪深い冬を狙って、勝家に譲った近江長浜城を手中に収める。挙兵した織田信孝に対しては、人質である母と娘を殺害する思い切った手を打ち、降伏させる。領地を伊勢一国に抑えられた滝川一益が挙兵する中、ついに越前の柴田勝家が大雪を掻き分けて進軍してきた。

 

  柴田勝家ウィキペディアより)

 

 賤ヶ嶽に築いた柴田勝家の陣は思いのほか強靱で、両軍睨みあいの状態が続く。そこへ一度は降伏した織田信孝が再度挙兵し、秀吉は美濃へ応戦する。大将不在を知り好機と見た勝家の家臣、猛将佐久間盛政は、秀吉軍の中軸に激しい「中入れ」の攻撃を行い、戦上手の中川清秀を打ち取る勝利を挙げる。勝家はすぐに軍勢を引くよう念押ししたが、盛政は更に戦果を拡大しようとして、撤退の命令に従わなかった。

 

 一方美濃に出向く予定が、大雨で足止めを食っていた秀吉は、「中入れ」の報を聞いてこれが好機と、「大返し」を行う。秀吉軍が戻るのに2日はかかると踏んでいたが、わずか5時間で戻ったことを知り、佐久間盛政は不利を悟る。日中の戦闘での疲労が残る中、粛然と撤退をする佐久間軍に対し、秀吉軍は攻め口を掴めない。しかし、あと一歩と言うところで、佐久間軍を助ける位置にいた前田利家が、陣を退いてしまい、柴田軍は総崩れに陥った。

 

 敗走した柴田勝家前田利家を責めず、秀吉に仕えるよう進言する。自分は北の庄に戻り、再婚したばかりの市と城を枕に自害して、茶々を始めとする3人の娘を秀吉に託す。織田信孝は再度降伏するが2度目は許されず、「暗愚」と軽んじていた兄弟の信雄から、自害を迫られる。

 

   *佐久間盛政(建勲神社

 

【感想】

 司馬遼太郎の名作「関ケ原」は、豊臣秀吉薨去したところから始まったが、同じく天下分け目の戦いを描く「賤ヶ嶽」は、織田信長本能寺の変で討たれるところから始まる。そして「関ケ原」と同じように、戦争に至るまでの秀吉と柴田勝家の知略合戦が物語の大半を占める。

 その中で勝家が秀吉の敵を調略するのに対し、秀吉は更に大きく、その後の天下の仕置きも考えて策略を巡らす。京洛は秀吉の人気で信長の治世を忘れさせ、自分の敵は静観させて、勝家の敵は更なる憎悪を掻き立てるようにと、秀吉は知恵を巡らしていく(まるで昭和の田中角栄の天下取りの手法💦)。

 この辺は「関ケ原」前に徳川家康が巡らした知略と似ている、というよりも、家康は秀吉を見習い、そして研究したことであろう。黒田官兵衛柴田勝家を謀略で殺害することを献策した時、秀吉はその後の仕置きを考えて、光秀の二の舞になるようなことは御免だと考える。同じように徳川家康も「武断派」によって襲われた石田三成が徳川屋敷に避難した時に、謀殺はせずに三成を生かして、後に戦いで決着することを選んだ。

 秀吉、家康ともども、天下を取るには謀略では効かず、最後は自らが表に出て雌雄を決しなくては「世間」が納得しないことを知っていた。そして戦に勝つ要因として、関ヶ原での小早川秀秋の役割を、賤ヶ嶽では前田利家が演じている。

 戦いの「中入れ」も興味深い。佐久間盛政が強硬に主張して柴田勝家が渋々評した「中入れ」。これが柴田勝家の敗因となるが、小牧長久手の戦いでは秀吉は柴田勝家の立場になる。対峙が長引く中で強硬に中入れを主張する池田恒興らを秀吉は抑えることができず、それが敗因となってしまった。対して「中入れ」の軍を単独で撃破した家康は、更なる欲は出さずにすぐに撤収して、秀吉に勝った実績を「勲章」とした。この「勲章」が秀吉に負い目を抱かせ、後々豊臣家滅亡に起因すると思うと興味深い。

 

   

織田信孝。余りにも激しい辞世の句「昔より 主内海(討つ身)の 野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前」。野間は信孝が幽閉された場所でもあり、また平治の乱源義朝が家臣に裏切られて終焉の地になった場所でもあります。

 

 また秀吉の強運も後から見れば驚く。柴田勝家滝川一益本能寺の変ですぐに動けない状況だったことは、少し間違えれば秀吉自身の運命であったことを本作品でも触れている。しかも滝川一益は強敵武田家滅亡の功労者として、領地と共に関東管領奥州探題という、皆が羨む褒賞を受けた後の「高転び」。

 運命の皮肉を描くために、滝川一益が本作品の最後を締めくくる役割を担った。

 

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