小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

7 信長さまはもういない(池田恒興) 谷津 矢車 (2016)

【あらすじ】

 織田信長と乳兄弟で幼馴染み、子供の頃から一緒に「傾いた」乱暴者だった池田勝三郎恒興は、信長の命ずるままに織田軍の「牙」となって戦いを繰り返していた。しかし信長は自分で判断しない恒興に不満を持ち、姉川の戦いの後信長が書いた「覚書」を渡して、信長の考えを理解するように命じる。しかし文字を読むことが苦手な恒興は、時々めくった頁に目を通すのみ。

 

 そんな信長が本能寺の変で死んだ。今まで恒興は命令に従うのみで、自分で考えることができない。信長に反逆した明智光秀を許すわけにはいかないが、大坂に陣を張る丹羽長秀は、旧友の津田信澄を光秀の婿をいう理由で殺害していて、素直に従う気持ちにならない。紛糾する評議の中、恒興は信長の覚書を取り出して開いた頁には「今の趨勢わからぬうちは動く事なかれ」と書かれていた。そこで次男三左衛門に情報収集を命じ、残りは英気を養う方針を伝える。嫡男之助は父に感服し、中国大返しから戻って訪れた秀吉軍の蜂須賀小六は、堂々とした恒興を見直す。

 

 秀吉が畿内に戻ることで味方が集う。それでも秀吉にも良い印象がない恒興は信長の覚書に頼ると、「戦之勝ち負けは兵の多寡のみが決す也」。そこで秀吉軍に味方することにするが、戦場では丹羽長秀を嫌い離れた場所を希望する。しかし主戦場の状況がわからない。本陣につけた次男の三左衛門から、戦いが激しく本陣が混乱していると中途半端な連絡が入る。困惑しながらも陣を進めると、それが奇襲の形となって戦いを制するきっかけとなり、秀吉からは織田家の宿老職を推薦されることになる。

 

 恒興の働きで山崎の戦いを制した秀吉は、清洲会議織田家のその後を自分の有利に進めようとする。旧友でもある柴田勝家は三男信孝を、秀吉と丹羽長秀は二男信雄を後継にしようと画策する。どちらにも決めかねる恒興が頼った覚書には「筋目が第一の要也」と書かれていた。織田家家督は既に信長から長男信忠に譲られていた。その信忠も亡くなった以上、その子の三法師が筋目のはず。恒興の意見に秀吉も長秀も乗り、柴田勝家の野望を挫くとになった。

 

  池田恒興ウィキペディアより)

 

 賤ヶ岳の戦いで勝家を破った秀吉が天下人に近づく。しかし織田家への仕置きに恒興が納得できない中、家康との戦いが勃発する。迷った末に秀吉に加勢するが、恒興の婿森長可は緒戦の失態を挽回するために、家康軍へ中入りを命がけで志願し、嫡男の之助もこれに従う。秀吉はそれを許し、恒興は危険な賭を行なう嫡男と婿を助けようと従軍するが、徳川勢に囲まれ窮地に陥る。

 

 困った恒興が覚書を思い出し、最後の頁をめくるとそこには「焼けた鉄斧の柄を握るべし」と書かれていた。それは子供の頃にあった、選ぶときは神様などに頼らず自分の肚で考えよ、という信長の教えだった。ようやく信長がこの覚書を渡した真意に気が付いた恒興は、そのまま徳川勢に攻め込み、壮絶な最期を遂げた。

(なお、覚書の「」内は、作中ではひらがなではなくカタカナ表記されています)

 

【感想】

 タイトルには「信長」が入っていて、最後まで織田信長の史実が挟み込まれているが、内容は本能寺の変から小牧長久手の戦いまでの期間でもあり、本作品は「秀吉編」に組み入れた。池田恒興織田信長乳兄弟で信長の主要な戦いには全て参陣して、無尽の働きで活躍した。しかし槍働きは優れていたが、柴田勝家丹羽長秀、そして新参の光秀、秀吉、滝川一益のような「宿老」にまではなれなかった。

 槍働き以外で注目を浴びたのは信長死後。信長の乳兄弟という出自が戦いの「御旗」となったようで、特に秀吉は味方に引き入れることに細心の注意を払い、最大限の敬意と「恩賞」を与えた。山崎の戦い清洲会議柴田勝家織田信孝との戦いと続く中、池田恒興を味方につけることで、ほかの武将も秀吉に参じる「理由付け」となる存在になった。

 そんな池田恒興は、織田家の内紛が収まったタイミングで小牧長久手の戦いが起き、そこで嫡男之助、婿の森長可とともに48歳で戦死する。秀吉にとっては、賤ヶ嶽の戦でなくなった中川清秀とともに、役割を終えた後の「うるさ方目」でもあり、ここでも秀吉の「強運」を感じる。

 本作品で恒興から「何を考えているのかわからない」とされた次男の三左衛門(輝政)。血気盛んな福島正則から喧嘩を売られて、父恒興から喧嘩の極意を教えられたにも関わらず、理由がわからないとして相手にしない。恒興は物足りなく思っていたが、父と兄が亡くなったことにより、家督を継ぐことになる。

 

  

 *「何を考えているのかわからない」池田輝政は、姫路城を築城して建築、美術の分野で足跡を残し、孫の池田光政閑谷学校を創設し、学問上でも名を残すことになりました(ウィキペディアより)。

 

 その後秀吉と家康が和睦した際の「象徴」として、正妻が亡くなったあと家康の娘を嫁に貰い、その後は家康に従い続ける。関ヶ原の戦いでは岐阜城攻めで「因縁の」福島正則との先陣争いをするが、福島正則に功を譲り、諍いのタネを避ける人格者でもあった。

 そんな性格が家康に信用されたのか、徳川幕府でも特別扱いとなり、姫路を与えられて現在の姫路城を築城。そのあと備前岡山藩に転封となるが、同時に家康の娘から生まれた子には別に因幡鳥取藩が与えられて、池田家で合計100万石を領するほどの厚遇を受けた。