小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

番外 逆説の日本史11 戦国乱世編「朝鮮出兵と秀吉の謎」 井沢 元彦

 「戦国三英傑」編は本人の伝記を取り上げませんが、番外として「逆説の日本史」から本人に迫ります。ここでは豊臣秀吉井沢元彦は秀吉が「どうやって世に出てきたのか」を考察しています。

 

【目次】

  • 豊臣秀吉、その虚像と実像編 ―歴史学界がタブー視する「差別」構造
  • 織田つぶしの権謀術数編 ―いかにして「権力の正統性」を確保したか
  • 対決、徳川家康編 ―最大のライバルを屈服させた「人質」作戦
  • 秀吉の天下統一経営1 豊臣の平和編 ―宗教、貨幣、単位を統一した専制君主の国内政策
  • 秀吉の天下統一経営2 太閤の外征編 ―朝鮮征伐にみる日本人の贖罪史

 

【感想】

1 「羽柴」の謎

 本作品では、親指が2本あって(当時)周囲から蔑まれた「多指症」から取り上げています。合わせて木下という姓も、実は妻のおねの家系から貰ったもので、その上で改名した「羽柴」も実際は「端柴」と論じます。「端」はハンパを意味し、柴は「芝」と違い低い木の一般を刺す言葉で、つまりは「ハンパ者」の意味と推測しています。

 通説である丹羽+柴田ではない理由として、2人にだけ追従したら他の武将たちの反発を招く恐れがあり、「人たらし」の秀吉がそんなリスクを抱えないこと。もう1つ、後に柴田勝家を打ち破り天下人になった後も、臣従した武将たちに「羽柴」の名前を恩賞代わりに与えて、一族同様に扱ったことを上げています。

 読み方は「ハシバ」ですが、なぜ漢字で「羽柴」を選んだのか。秀吉が羽柴に改名したのは、「筑前守」に任官されたとする1573年頃と推測されています。朝廷から官位を受けると漢字として記録に書き記されるため、「」では朝廷に恐れ多いとされ「羽」に変えたと推理していますが、推測の域を出ません。

 

  豊臣秀吉(ダイヤモンド・オンラインより)

 

2 秀吉の闇

 本能寺の変のあと徳川家康を臣従させるために、妹と母を人質に送ることで、家康は強硬手段が取れなくなったと推測しています。家康の心中を読みきった見事な作戦に見えますが、私は、人質が殺害されるリスクは高かったのではないかと思っています。

 理由は、柴田勝家と対決する賤ヶ岳の戦いの前に、勝家と呼応して反秀吉の兵を挙げた織田信孝に対して、秀吉は人質として預かった「かつての主君」信長の愛妾だった生母と、信長の孫の娘の2人を、ともに磔にして殺害しています。勝家が迫る中での苦渋の選択だったかもしれませんが、ここで既に主家織田家に牙を剥いています。

 結局秀吉は信孝を死に追いやり、信雄も改易同然にしています。秀吉の人質が織田家の人質と同様にされても、それが戦国の世の習い、と思われたはず。しかし家康は秀吉が存命中ということも考慮して、関係の更なる悪化は避けました。

 こうして見ると、家康が豊臣秀頼に対して行なった以上の残虐性を示しています。

 

 

 *以前も取り上げた大河ドラマ「秀吉」の1シーン。楽天的な秀吉に、心配性の弟秀長。そして影で支える者のおねの性格が、画に表れています。

 

3 朝鮮出兵

 朝鮮出兵については紙数を多く割いています。字句の定義から始まり、かつて英雄と呼ばれた世界の征服者たちを取り上げて、現在は許されないが、「英雄」としては誰しもが考える道だったとして擁護しています。その通りの論理ですが、現実は秀吉は朝鮮出兵で敗れています井沢元彦は、勝敗は結果に過ぎないとしていますが、戦争はやはり結果が全てであり、井沢元彦が自ら論じるように、歴史とは勝者のものです。

 日本は元寇では敵を撃退することに成功し、その後長い間「超大国」中国大陸の帝国から攻撃を受けなかった「孤島」という(蒸気船が出現するまでの)地理的利点。反対にかつて白村江の戦いで敗れたように、日本が朝鮮半島や中国大陸を攻撃する際の困難につながり、仮に勝利しても、その後の統治の脆弱性に直結します。

 秀吉は中国征服後、天皇家を中国に「在駐」することを想定したと井沢元彦は推測しています。しかし、武力の持たない天皇家が権威の通じない中国大陸で、果たして「象徴」としての役割を果たせたのか、私は大きな疑問を感じます。

 

*「豊臣兄弟」は2人とも取り上げましたが、まさか弟の秀長が再来年の大河ドラマの主役になるとは・・・・ でも秀長へは好意的なコメントばかりでしたね。

 

4 豊臣政権の限界

 こう考えますと、豊臣家の中国侵攻は元々無理を抱えています。例え朝鮮出兵が成功し、実際に中国支配を行なったとしても、たちまち破綻したと思われます。しかし豊臣家は一代(名目上は二代)で滅びたために世に「太閤びいき」が生まれます。秀吉が織田家に手がけたことは、徳川家康が秀吉死後の豊臣家への仕打ち以上のことに思えますが、豊臣家は「被害者」として終ったために、後世の評判は高まったのかもしれません。

 秀吉は信長の意向を読み取りながらも、自らの考えを加えた天下支配を進めました。しかし本能寺の変から急遽天下取りに走ったために、後継者の問題も含めて、豊臣家の体制が「その場しのぎ」だったことは否めません。

 

 その綻びを「クライシス・マネジメントの達人徳川家康が後を継いで、磐石な体制を築き上げていきます。

 その過程は、次の「徳川家康編」で触れていきます(しかしフツーは大河に合わせて昨年取り上げますね ww)。

 

  *豊国廟にある秀吉の墓(ウィキペディアより)

今回取り上げなかった「秀吉本」の一部

 ・新書太閤記          吉川 英治   (1945)

 ・異本太閤記          山岡 荘八   (1965)

 ・新太閤記           海音寺 潮五郎 (1966)

 ・豊臣家の人々         司馬 遼太郎  (1967)

 ・おんな太閤記         橋田 寿賀子  (1981)

 ・秀吉と武吉 目を上げれば海    城山 三郎   (1986)

 ・夢のまた夢          津本 陽    (1994)

 ・秀吉 夢を超えた男        堺屋 太一   (1996)

 ・封印された名君 豊臣秀次     渡辺 一雄   (1999)

 ・秀吉の枷           加藤 廣    (2006)

 ・曽呂利!           谷津 矢車   (2015)

 

 

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