小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

20 信長の棺(太田牛一) 加藤 廣(2005)

【あらすじ】

 織田信長付の書記を務めていた太田信定(牛一)は、信長から恐ろしく重い長方形の箱5つを預けられ、各地の暦で混在している戦争の報告書を、統一するよう求められた。そこへ本能寺の変の報が入る。安土も戦場になると感じた牛一は、箱5つのほかに、自分が記録していた日記や史料も携えて清洲に避難しようと決意する。準備しているところに安土城の普請奉行から「天守指図」の図面も託される。

 

 弟が住職を務める成願寺で箱を地中に埋めたあと、宿老筆頭の柴田勝家の元に赴くために北ノ庄へと向かうが、そこで何物かに捕まり監禁状態になる。10ヵ月過ぎてから解放されて待っていたのは、「大殿」と呼ばれている羽柴秀吉だった。この間清洲会議から賎ヶ岳の戦いを経て、天下人への道を歩んでいた秀吉は、牛一に記録者になるように命じる。

 

 秀吉の追従本を書かされて嫌気をさした牛一は、助手の大村由己に引き継ぎ、隠居して信長の伝記を密かに執筆する決意をする。ところがその由己が大坂に隠棲し、急逝した。やむなく牛一は追従本「大こうさまくんき」を殴り書きで完成させる。

 

 牛一はその後ようやく信長の伝記にとりかかる。そのため本能寺の変の疑惑も解き明かさなくてはならない。京の宿泊所を本能寺と決めていた信長は、本能寺は小さいからいいのだと答えていた。本能寺は改修され本能寺砦というべきものになったが、この本能寺から信長の遺骸は出てこなかった。

 

 牛一は光秀が「ときはいま あめがしたしる さつきかな」を詠んだ愛宕山にいく。そこで神官は、明智光秀近衛前久と密談をしたが、その後近衛は姿を消したと言う。御綸旨を求めた光秀をかわし、はしごをはずしたのか。そして秀吉の「中国大返し」も余りにも都合が良すぎる。

 

   

 *2006年にテレビ朝日で制作されたドラマで太田牛一を演じた松本白鴎(幸四郎:時代劇スペシャル)

 

 すると衰えた秀吉から使いが来て、信長の記録の執筆を求めてきた。秀吉は秀次一族の弑逆などで世間の評判が悪いため、信長はもっと残虐だったと書かせたかった。不本意な形で完成した信長記は、秀吉側の手で写本されていた。牛一は改稿を決意するが、賊が忍び込み家は荒らされる。そして牛一が預かっていた、前野長康に縁のある紗耶は縛られていた。

 

 牛一はその後、紗耶の故郷で祖父の惣兵衛から秀吉の出自を知る。秀吉は蜂須賀、前野と同じく丹波の出身という。そして桶狭間の合戦における秀吉の役割も語った。また惣兵衛の弟の子・清如が信長の死にまつわって何かを知っているらしい。信長の遺骸は本能寺から遠い阿弥陀寺が引き取っていたというが、そこに清如はいたのだ。

 

 しかし、どうやって監視の厳しい明智軍の網の目をくぐって運んだというのか。また秀吉は信長の火葬をする前に、真っ先に阿弥陀寺に来ている。その清如が牛一の元にやって来て、信長の最後の謎について語り始める。

 

  

 *現在の本能寺にある信長公廟。当時の本能寺は京都における信長の「定宿」だったため、要塞風に修築したと言われています(ウィキペディアより)

【感想】

 織田信長編の最後は、物語は本能寺の変から始まり、その謎に迫るミステリー仕立ての本作品とした。当時現職の小泉純一郎総理が愛読書としてあげて、既得権益を打破するイメージが重なり一躍「信長ブーム」となった本作品。しかし「信長死後」を扱っているため、本作品の内容とともに、当時私は何のためのブームか頭を傾げていたもの。

 織田信長が朝廷を圧迫した事実の1つとして、天皇しか認められない改暦を強要したことをあげている。当時は各地で暦が作られていたが、太陰暦(月の満ち欠けを基準)で、見た目は判りやすいがズレも大きく、月どころか季節も変わり、どれも精度は著しく欠けるものであった。

 対して西洋では本能寺の変と同じ年、ユリウス暦がグレゴリオ暦に改暦されることになっていた。紀元前45年にユリウス・カエサルジュリアス・シーザー)によってユリウス歴が制定されてきたが、暦年の平均日数365.25日と、実際の約365.24219日とのずれが毎年蓄積されたために、およそ1600年振りに改暦をするという

 中国でも暦は紀元前からかなりの精度を有していて、諸葛孔明日蝕を予測して戦略を用いるなど、古から、日どころか時間単位で日蝕が予測できた。ところが日本では、朝廷は暦の権威は振りかざす反面、日蝕の予測などは全くと言って良いほどできない。折しも本能寺の変が起きた(6月2日未明)の前日、6月1日に日蝕となったが、京暦は完全に見逃してしまった。

 西洋の新しい知識に貪欲だった信長は、イエズス会から改暦について聞いていたはず。当時日本では数少ない太陽暦を採用して、精度が高い三島暦に変更するように信長は朝廷に迫っていた。ひょっとしたら6月1日の日蝕は、本能寺の変の「トリガー」だったのかもしれない。

 「信長公記」の作者太田牛一を、史料の暦を統一させる役割から始めて、本能寺の変における光秀と朝廷の謎、秀吉の「中国大返し」の謎、信長の余りに非情な性格を描いた謎をちりばめ、秀吉の出生の秘密を暴き、そして信長の遺体が最後まで見つからなかった謎に迫っている。

 

   

 *同ドラマで織田信長を演じた松岡昌宏。「威厳」は感じませんでしたが、妙に派手な衣装に印象が残りました(時代劇スペシャル)

 

 

 今までも取り上げてきたが、本能寺の変については様々な「説」がある。光秀の衝動的な行動から始まり、周到に計画していたもの、そして秀吉、足利義昭徳川家康、朝廷、細川幽斎イエズス会など様々な黒幕説が流布している写楽の正体のように、いつの間にか定説ができるかもしれない。

 しかし本能寺の変という歴史上における意味の大きな事件は、今後も様々な角度から、歴史小説家たちによって描かれる材料としての役割が続いていく。

 

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