小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

7 播磨灘物語 (1975)

【あらすじ】

 播磨国は、足利幕府が成立した折に手柄を立てた赤松氏が支配する国。戦国の時は名門赤松家の分家である小寺政職が支配していた。曾祖父が近江から目薬の商いでこの地に流れて、小寺家に仕えた黒田家に官兵衛は生れる。黒田家は代々律儀で知恵がある者が続き、官兵衛の代では家臣団で重きをなす存在となっていた。

 

 早くから家督を譲られた官兵衛は、新たに京で勃興していた織田家に魅力を感じるが、当主小寺政職を始めその他の家臣団は、保守的な家風から毛利家との連携を望む。官兵衛はその知恵と弁舌で織田家への臣従とする意見をまとめるが、当主を始め家臣の一部には疑念が残った。

 

 そんな時織田家重臣荒木村重が信長に叛旗を翻す。以前から交流があった官兵衛は村重を説得しに単身有岡城に赴くが、そこには官兵衛の主君小寺政職から、内々に官兵衛の命を絶つよう依頼する文が届いていた。村重は旧友の官兵衛の命を奪うことはためらい、結局牢に閉じ込めてしまう。城に入って戻らない官兵衛を秀吉は心配するが、信長は村重への怒りも重なり、官兵衛も裏切ったと判断して、人質の息子長政を殺害するように秀吉に命ずる。信長の命令は絶対的で抗しがたい。悩む秀吉に、自分の死期を悟り、官兵衛なら自分の死後を託せると見込んだ竹中半兵衛が、自らの責任で長政を匿う。

 

 黒田官兵衛西脇市HPより)

 

 有岡城の籠城は長く続くが、その間村重は家族や家臣を置いて、単独で城から逃げ出してしまう。卑怯な振る舞いを嫌う信長は、有岡城を総攻撃で落としたあと、残された一族郎党を皆殺しにする厳しい罰を与える。その中で瀕死の状態で1年振りに牢から助け出された官兵衛を見て、人質の処罰を命じたことを後悔するが、竹中半兵衛の機転で長政が匿われていることを知る。

 

 但し官兵衛はこの一連の出来事で人生観が変わってしまう。それまでも自分の出世などについては余り興味がなかったが、自分に達観するようになった。毛利攻めの後本能寺の変が起き、秀吉に天下を取らせるために知謀の限りを尽くすが、それで自分が報われることはない。秀吉からは危険な存在と見られて、天下統一後は身の置き場がなくなってしまう。

 

 秀吉の死後に天下分け目の争いが起きた時、自分は九州で独立して天下を望もうとするも、関ヶ原の戦いは半日で終了してしまう。ついにその知謀を自らの天下取りには使うことなく生涯を終える。

 

【感想】

 斎藤道三織田信長豊臣秀吉、そして黒田官兵衛司馬遼太郎は商業行為が必然的に有する合理性の視点を結びつけて、中世の重層的な土地支配を脱却する時代の変革者としての役割を担う人物をして描いた。黒田官兵衛は目薬を製造する近江商人の血を引く者として描き、官兵衛の性格として、自己を見える男として捉え、そのために自分の大きさを知ってしまい、余り欲を出さない人物として描いた。

 そのため仕えている小寺政職も、知恵と才能では官兵衛父子が大きく勝っているものの、親子とも主君に「下が上を克つ」をしようとしない。官兵衛の中では露とも生れない思いだが、主君から見ると有能で頼みになる部下に対して一度疑惑がよぎると、自分に弓を引く者としての疑いは晴れない。人の欲望を刺激して、合従連衡に秀でた知謀を発揮した官兵衛だが、主君の思いと「狡兎死して走狗煮らす」という中国で古くからある故事は、自分には当てはまらないと思っていたのだろうか。

*官兵衛が有岡城に閉じ込められたことを描いた、なんとも秀逸な作品。

 

 親子で尽くした小寺政職からは、命を奪わせる裏切りを描く。NHKの大河ドラマ軍師官兵衛」でも、小寺政職片岡鶴太郎が小人物として見事に演じたが、これも領主の立場からすれば、戦国の世を乗り切るためには、非情な判断の1つと思える。官兵衛が雄弁に語った状況が変わり、元々官兵衛の意見に疑念を持っていた家臣団から「それ見たことか」と言われたら、自分もそんな考えがあったこともあり、(小人物ながら)領主の立場として意見に従うのもやむを得ないと、私は考える。但し官兵衛の雄弁と存在感も邪魔になり、いくらこの時代でも「だまし討ち」はやりすぎか。

 小寺家のため、織田家のため、そして豊臣家のために尽くした官兵衛だが、結果的にはその3人から裏切りと言える目に遭っている。主君小寺政職はうるさい官兵衛を説得に行った有馬城で殺すように「売って」、消息が断った官兵衛に対し、織田信長織田家裏切りと判断して人質の長政を殺害する命令を出した。その時は庇った秀吉だが、天下統一した後はその知謀を恐れらたがために、政権からは遠ざけられて、また大きな褒賞を受けることもなかった。

 司馬遼太郎は官兵衛について、例えば芸術家が自分の才能を発表するかの如く、自分の知謀をこの世で表現することだけが唯一の欲望と考察している。出家して「水の如し」と如水と号した官兵衛だが、これも秀吉の怒りに対する緊急避難的な意味合いで、私からすると秀吉から疑われた伊達政宗が、弁明のため上洛する際に十字架を背負ってきたような「あざとさ」も感じてしまう。

 知謀があるとは言え小寺家家臣の時に、最初に新興の織田家に目をつけ、やや強引に織田家の配下についた。また後に本能寺の変の「中国大返し」の際は、秀吉に対して「いらぬ建策」を行い、その後秀吉から疑われるようになる。そう見るとやはり、官兵衛の心の底には「色気」があったのではないか。但しそれは戦国武将のものではなく、空海が生涯で持ち続けたものに近い印象を受ける。

 そしてその残り火は、関ヶ原の戦いにおいて九州割拠の動きに現われている。但し自分が信長や秀吉、そして家康のような「天下人」としての資質がないことを、官兵衛は自覚していただろう。仮に九州割拠が成功して、関ヶ原の戦いも長引き「天下三分の計」が成功しても、そこで天下をどちらかに「渡した」のではないかと想像する

 官兵衛の晩年を司馬遼太郎は(いつもの通り?)やや筆を速めてまとめにかかった。ただ司馬遼太郎は、官兵衛に対しては先に発刊した「関ヶ原」の作品で、物語を閉じる役回り与えて、その思いを収めている。

*本作品とは異なり、余りにも秀麗な「官兵衛」でした。