小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

【コラム】 ゴルバチョフとペレストロイカと「史記」

 ゴルバチョフ元大統領が、91歳で亡くなったニュースが入った。

 平成を生きた若い方はピンとこないかもしれないが、昭和の頃は、ソビエト連邦が日本を含む西側諸国の「敵役」として存在し、その存在は大げさではなく、日常において圧迫感を感じていた。当時は老人が党の「書記長」という役職に就いて、こんな老人が書記なんかできるのかと、子供心に不思議に思ったもの。

   *在りし日のゴルバチョフ書記長(ウィキペディアより)

 

 そんな中1985年に、まだ50代の若きゴルバチョフ氏が書記長に就任した時は、頭上を覆う厚い空気が薄れた印象があった。同年に当時のアメリカ大統領、ロナルド・レーガンと米ソ首脳会談を行って、友好を築くとともに核軍縮の実現が期待された。

 平和への期待が決定的となったのは、翌年ゴルバチョフが提唱した「ペレストロイカ」。ロシア語で「建て直し」を意味し、ソビエト体制の抜本的改革に着手した。同年4月に発生したチェルノブイリ原発事故を契機に、情報公開 (グラスノスチ)を推進し、それまで西側諸国にとって「闇」だったソビエト社会内部の情報を開放させた。

 西側諸国からみれば東西緩和の象徴として崇められ、1990年にはノーベル平和賞も受賞したが、ロシア国内において評判はすこぶる悪かった。ソビエト崩壊によりロシアは世界の覇権から凋落し、そして市場経済の導入は、一部の人々に富が集中する「経済格差」となり、多くの人々はそのひずみの中に埋没して、貧困に苦しむ羽目に陥った。

 

ソビエト連邦崩壊後の混乱を描いた、フォーサイスの傑作。

 

 1991年夏、保守派の部下たちが起こしたクーデターで、家族もろとも軟禁される事態に陥る。後に大統領になるエリツィンを先頭に、クーデターを鎮圧してゴルバチョフは軟禁状態から解放されたが、ゴルバチョフはその後政治的立場を回復することはできなかった。そして大統領を引き継いだエリツィン政権では、あらゆる面でアメリカとの差が広がるばかりで、ロシアは一時混迷の時代に入り、プーチンの登場を待つことになる。

 この時のゴルバチョフの凋落を見て、私はなぜか古代中国の「史記」を思い起こしていた。

 猛将項羽と負けながらも再起を繰り返す劉邦の間で、劉邦の配下だった「戦の天才」韓信は、周辺諸国を併呑し、やがて項羽劉邦に対抗するまでの勢力に拡大する。その際韓信に従っていた説家の蒯通(かいとう)は、韓信劉邦を裏切って天下取りを勧めるも、韓信はその言葉に従わなかった。後に韓信劉邦から疑われて処刑されるが、刑死するときに、あの時決断しなかったことを後悔する。

 蒯通が裏切りを勧めたことを知った劉邦は、煮殺す刑を命じた。対して蒯通は劉邦に、乱世では天下を望む者が数多くいたが、その全てを煮殺せるか、と弁じて、劉邦は苦笑いして蒯通を釈放させた。しかし命を長らえた蒯通は「死んだほうがましだった」と言い、天下を動かすために弁舌を学んだのに、たかがおのれ1人の命を救うために役立っただけだ、とこぼしたという。

*こちらの作品で蒯通の挿話を知りました(説明が長くなりました。御容赦)。

 

 行き詰まっていたソビエトの改革を目指して、アメリカに対抗できる新たな大国を目指したゴルバチョフしかしその手段であった「ペレストロイカグラスノスチ」によってロシアを混乱に陥ってしまう。ゴルバチョフに反対する勢力が反乱を起こすが、クーデターに反対する勢力が「グラスノスチ」で知り、戦うことになる。そしてグラスノスチゴルバチョフ自身の軟禁状態を解放するため「だけ」に役立つという、皮肉な結果に終ってしまった。政権から離れたゴルバチョフの心中を思うとき、私は蒯通のような思いを抱いたのではないかと想像した。

 しかし蒯通が天下を動かせなかった代わりに、成年男子の半分が亡くなったと言われた楚漢戦争において、被害の広がりを抑える結果となった。同じようにソビエトに降り立ち世界を変えたゴルバチョフ氏は、東西陣営の緊張緩和をもたらした。

 ところが現在、ロシアだけでなく様々な国の首脳たちの発言を聞くと、ゴルバチョフ以前」の東西の高官たちが、自分の主張だけを弁じて、全く歩み寄る気配がない強情な姿を、否が応でも思い浮かべてしまう

 「母国」のウクライナ侵攻を批判していたゴルバチョフ氏。今改めて思うと、ゴルバチョフ氏が世界にもたらした成果は、想像以上に大きいのではないかと感じる。

 改めて冥福を祈りたい。