小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

5 叛鬼(長尾景春)伊東 潤(2012)

【あらすじ】

 

 関東管領の家宰を代々務める白井長尾家の嫡子、長尾景春。越後上杉家から迎えられて関東管領職を継いだ12歳の上杉顕定を見て「好かぬ小僧だ」と感じ、叛骨心に満ちた眼差しを向ける。顕定もその視線に気が付いて、敵意をあらわにして睨み返す。時に景春23歳。

 

 景春が30歳の時に父が亡くなるが、関東管領顕定は出過ぎた景春が家宰職を受け継ぐことを許さず、更に所領没収し出家を命じる。酷薄な命令に景春は、長年敵対してきた古河公方足利成氏方に走り、かつての主君と戦うことを決意する。

 

 本家山内上杉家の支流となる扇谷上杉家。その家宰である太田道灌は、幼少のころ鎌倉の建長寺で景春と共に学んだ10歳年上の兄貴分だった。主君の上杉政真とともに景春救済のために奔走するも、顕定は受け入れない。そして景春が古河公方の軍勢を率いてかつての居城を攻め込んだ時、勢いで居合わせた上杉政真の命を奪ってしまう。

 

 復讐の鬼と化した太田道灌は知謀と軍略を駆使して、景春を何度も窮地に追い込む。景春が乾坤一擲の勝負を仕掛けようとすると、不倶戴天の敵だった山内・扇谷の両上杉家と古河公方成氏を糾合させる凄腕を見せつけ、反撃の隙を与えない。後ろ盾を失った景春は太田道灌にとどめを刺され、秩父山麓で1人逃げ込み、妻や子は上杉顕定に囚われの身となる。

 

 そんな景春に、古河公方を認めることが関東の平定に必要だと、将軍に訴える役目を誘う人物がやって来る。その名は伊勢新九郎長氏。前将軍の足利義政は戦乱を回避したい思いもあり、景春の訴えを聞いて古河公方を幕府公認とすることを許した。これを土産に関東に戻った景春を、古河公方は自分の直参にすることで迎え入れ、ようやく関東に居場所を確保した。

 

  太田道灌ウィキペディアより)

 

 そんな時太田道灌の能力を妬んだ家臣が讒言を主君扇谷上杉定正に吹聴し、信じた定正によって道灌は謀殺、これでまた関東は混乱の状況に陥る。その中で景春はどうしても上杉顕定を許せず、扇谷家の定正に付いて顕定と戦う。皮肉にも相手の先鋒は、顕定に取り入れられていた景春の息子景英。戦いに敗れた上杉定正は命を落とし、再度居場所を失った景春は、長年の宿怨を越えて上杉顕定への帰参を決意する。顕定も年を重ね、かつての剣呑さはなくなり、将としての人格も備わってきた。

 

 そんな顕定も実家の越後上杉家が危機に陥り、越後出兵を強引に行なう。越後のために関東が戦乱に巻き込まれることは敵わない景春は、子の景英と共に再度離反して、伊勢新九郎とともに叛旗を翻す。戦いが膠着状態になった時、顕定が越後で戦死した報に接する。

 

【感想】

 伊達政宗が生まれる、およそ50年前に亡くなった長尾景春の物語で、実稼働の時期は100年ほど先行している。教科書的には無名だが、関東において戦国時代の幕を開けた人物と言える。

 ただし私はこの時代の関東地方は正直苦手。公方も鎌倉公方古河公方堀越公方(そして小弓公方という名称もある)と様々に分かれ、関東管領職も山内上杉家扇谷上杉家、そして越後上杉家と混在。同じ時期に中央で起きた応仁の乱も親族が入り乱れての戦いで混乱するので、それだけでお腹一杯の状態。そんなところで本作品を読んで、ちょっとだけだが北条支配に至るまでの関東の戦国時代について「なぞる」ことができた。

 まず古河公方成氏。結城会戦で生き延びた鎌倉公方持氏の末子栄寿丸だが、将軍義教が死んだ後鎌倉府再興を将軍義政に許されて鎌倉公方となる。関東管領山内上杉家の憲忠が就任したが、関東管領との対立が原因で父持氏が殺害されたため、公方の成氏と管領憲忠の間で内紛が絶えなかった。

 

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鎌倉公方成氏にも触れた作品です。

 

 今回は公方成氏が管領を謀殺し、鎌倉から古河に逃げ込んで古河公方と名乗る。対して管領側は将軍義政に働きかけて新たな公方として、義政の兄政知を派遣するが、関東に人国できずに伊豆に滞在して堀越公方と名乗る。ちなみに将軍義政は後に成氏を許したため、堀越公方が宙に浮いてしまう。義政の政治は一事が万事この調子で、その場凌ぎで後に禍根を残していく。

 関東管領上杉家は元々藤原北家の公家出身。皇族将軍の付き添いで鎌倉に下り、そこで足利氏と婚姻関係を結ぶ。上杉家から嫁いだ妻が尊氏・直義兄弟を産むことで、上杉は足利幕府の重鎮となる。元々山内上杉家が主流だが、尊氏の叔父が鎌倉の扇谷に居を構えることで、分家の扇谷上杉家が興る。

 ところがこの時代になると扇谷上杉家の家臣に太田道濯が現れて勢力を伸ばし、時に本家山内上杉家を凌ぐ勢いになる。ところが扇谷上杉家はその後断絶し、山内上杉家北条氏康に追われて越後に逃げ延びる。上杉家は長尾景虎を養子として上杉謙信となり、現在まで続くことになる

 

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北条早雲は旧勢力を駆逐して、新しい時代の風を関東に吹き込みました。

 

 「下剋上の先駆者」長尾景春が巻き起こし、50年以上も続いた関東の戦乱。本作品の前半は、太田道潅に負け続ける長尾景春の姿。家臣団が壊滅する程の打撃を受けたが唯1人生き延びて再起する。そして戦乱の結末は、両上杉家と関東の民たちを疲弊させる役割に終わってしまった。 特に疲弊した武蔵・相模を拠点とする扇谷上杉家は、伊勢新九郎長氏(北条早雲)の関東侵攻を止める力は、既に残っていなかった。まさに「叛鬼」と呼ぶに相応しい人物だった。

  本作品で長尾景春は越後に赴き、「宿敵」上杉顕定を弔ったあと客死したとしたが、史実では詳細は不明。終焉の場所は子の景英が取り戻した長尾氏の居城、白井城とも、亡命先の駿河ともいわれている。

 

 私のアタマを整理するため、関東の争乱を要約してみました。参考までに。

 

【関東で起こった主な反乱・戦闘】

上杉禅秀の乱 (1416)   関東管領上杉禅秀が、婿の4代将軍義持の弟義嗣と連携して叛旗を翻す。

永享の乱 (1439)       6代将軍義教は対立した鎌倉公方持氏を討伐する。

結城会戦 (1940-1941) 鎌倉公方持氏の遺児を担いで、結城氏が幕府に背き籠城する。

享徳の乱(1455-1483)  鎌倉公方成氏が関東管領を謀殺したことにより、公方と管領の対立が続いた。

 ・関東管領との対立により、成氏は鎌倉を離れ古河に移り、古河公方と呼ばれる。

 ・将軍義政は兄政知を新たな公方を派遣するが、関東には入れず伊豆で堀越公方と称する。

 ・古河公方に謀殺された管領上杉憲忠の弟房顕が戦死し、越後の上杉顕定関東管領に就任する

長尾景春の乱(1477) 管領顕定と対立した家臣の長尾景古河公方側につき、叛旗を翻す。

 ・管領の働きかけもあり幕府が古河公方を認め、和睦が成立した(都鄙合体)。

太田道潅謀殺 (1486) 讒言を信じた主君上杉定正が、柱石の道潅を謀殺する。

永正の乱(1507-1521) 越後の内乱に関東管領上杉顕定が介入し、戦いが広がる。

・越後守護代長尾為景上杉謙信の父)が、越後守護上杉房能を急襲、房能は関東に逃亡する。

・兄房能を助けるために実家の越後に進軍した関東管領顕定が戦死する

管領山内上杉家家督争いが勃発し弱体化。長尾景春は再度上杉家から離反する

古河公方も親子で争いが発生。管領家は仲裁する力が無く、古河公方も弱体化。

河越夜戦(1545)   上杉管領家古河公方がともに関東で地盤を失い、北条家の支配が固まる。