小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

13 乱世を看取った男 山名豊国 吉川 永青(2021)

【あらすじ】

 応仁の乱で西軍の大将となった山名宗全から5代下るうちに、山名家は領国は徐々に失われて、遂には但馬と因幡の一部を領するのみ。山名宗家、山名祐豊の甥(弟の次男)山名豊国は文武に秀で、祐豊から見込まれ娘の藤を嫁にもらい、山名家再興の期待を託された。兄の山名豊数はそんな弟に嫉妬心を抱く。

 

 山名家所領の因幡は、下剋上を成し遂げた尼子家毛利家の争いに巻き込まれる。鳥取城主の武田高が毛利方になびき、山名に叛旗を翻す。焦った兄豊数は武田を攻めるも謀略に嵌り、失意のうちに病魔に侵され亡くなってしまう。豊国は武田高信への復讐を兄に誓うが、武田勢は当時先端兵器だった鉄砲を駆使して籠城し、豊国は攻め手が見つからない。

 

 毛利家が大内家と尼子家を滅ぼして中国地方の覇者に君臨しようとした頃、畿内では織田信長が上洛して足利義昭を将軍に奉じていた。常識にとらわれない戦術と戦略を用いる信長に将来性を感じるも、重臣たちは信長の革新性が理解できない。毛利家の勢威が目の前に迫ってもいて、豊国の考えに反対するため、信長と誼を通じることができない。

 

 豊国は滅亡した尼子家の残党、山中鹿之介と打倒毛利家で手を結び、武田高信を鳥取城から追い落とし、念願の因幡国支配が成立した。しかし実情は、目先の利益だけを追い求める国衆が豊国に注文をつけるばかりで、支配からは程遠いものだった。織田方が播磨の平定で手一杯の隙をついて、毛利が再度因幡国に侵攻すると、豊国は毛利家と和睦せざるを得なくなる。そのため尼子の残党とは袂を分かち、国衆たちとの混乱も更に広がった。すると織田方は本願寺と和睦、武田信玄が没し浅井朝倉を滅亡させて息を吹き返し、中国方面軍の羽柴秀吉が但馬そして因幡へと侵攻する。

 

  *山名豊国(ウィキペディアより)

 

 今度は秀吉が備中の宇喜多直家を引き入れて毛利家と対峙し、毛利は因幡への手当ができない。毛利家への人質も秀吉に奪われて、豊国は身動きできなくなった。その時に山名宗家の叔父、祐豊の死が伝わる。意見を聞かない国衆たちにも嫌気がさし、豊国は一人で秀吉に降伏した

 

 豊国が抜けた鳥取城は、毛利方から吉川元経が代わりに城主として派遣されるが、豊国が城主の時に兵糧米は家臣たちが勝手に奪い去って、籠城の準備はなされていなかった。その情報を聞いた秀吉と軍師の黒田官兵衛は、周囲の米を買い集めて鳥取城を兵糧攻めにする。3ヵ月でその効果は現し、吉川元経とともに、豊国に反抗していた家臣2人の死を条件に、秀吉の軍門に下った。

 

 出家して禅高と名乗った豊国だが、秀吉から仕官の話が何度も来る。仕方なく登城すると、実は娘を側室に渡す話だった。天下人の命に断れない禅高は、ますます世俗に嫌気がさした。

 

 

【感想】

 タイトルを見て手に取った作品。秀吉の鳥取城攻めで直前に逃亡した印象のある山名豊国だが、丹念に生涯を追うことで、その人物に命を吹き込んだ。

 源氏の名門、新田家の流れを汲む山名家。足利幕府創業時に尊氏を支えて大封を拝領し、一時は11ヶ国を支配して日本全国の「六分一殿」と言われた。その後領土を削減されたが、「赤入道」山名宗が現れて10ヶ国まで回復。そこで更なる野望を抱き、応仁の乱を起こし、時代を「乱世」へと導いた。

 

  山名宗全鳥取市歴史博物館)

 

 しかし宗全は志半ばで死亡し、その後山名家は凋落の一途を辿っていくが、それは大半の守護大名が歩んだ道と同じ軌跡。全国の守護大名が東西に分かれて戦った応仁の乱と、およそ130年後に起きた、同じく全国の戦国大名を東西に二分した関ヶ原の戦い。共に参戦した大名家は、一旦没落したあと秀吉が再興した京極家くらいか(幽斎、忠興の細川家は細川勝元とは別流で、関ヶ原当時は「長岡」を名乗っていた。伊達家島津家応仁の乱に参戦せず)。

 梟雄たちが争う中国地方において、ようやく毛利家が安定をもたらすと思ったら、今度は織田家が進出。間に挟まれる山名豊国は、非常に難しい舵取りを迫られる。物語の登場時は颯爽とした青年武将だったのが、次第に巨大勢力に挟まれてどちらに付くか、文句ばかりいう家臣たちとどう立ち向かうかに思い悩み、「組織のリーダー」の悲哀を演じることになる。

 秀吉の鳥取城攻めは、その後高松城攻め、山崎合戦、賤ケ岳の戦いと続く「天下人ロード」のスタートライン。そこで家臣に追い出されて1人降伏した山名豊国は、「太閤記」では端役に過ぎない。しかしそんな人物を拾い上げて「乱世を看取った男」として生まれ変わらせた作者の着眼点には、恐れ入るしかない。最後は同じ「新田家の流れ」を使って、徳川家康と結びつけた。

 徳川家康は豊国を源氏の流れを汲む名門として、「源氏の氏の長者」を標榜する徳川家における「権威の裏付け」の役割を求める。没落した名門の役割を知った豊国は家康の側近として仕え、3代将軍家光の時代まで生き、79歳で亡くなった。

 徳川家康が将軍に就任して豊国が謁見した際、家康は着古した羽織を着ている豊国にその理由を尋ねると、「室町幕府第12代将軍(義晴)から山名家に贈られた由緒ある物であり、山名家が将軍に謁見する際はこの羽織しかありません」と答え、家康はその律儀な振る舞いを賞賛した。

 山名豊国は6千石の旗本で終わったが、もって瞑すべしであろう。

 

 *山名豊国の母は、「大物崩れ」で自害に追い込まれた細川高国の娘。高国の義父「半将軍」細川政元の母は山名宗全の娘。細川と山名の関係は、応仁の乱だけではありません。

 

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