小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

6 新史太閤記 (1968)

【あらすじ】

 尾張国の貧農の子で、矮小な身体に醜怪な面貌をのせた風体から「猿」と呼ばれ、常に周囲からいじめ抜かれて育った藤吉郎。しかし知恵と機転に恵まれた藤吉郎は、才覚を元手に銭を増やす商人に憧れ、故郷を飛び出すことを決意する。

 

 やがて時代の動きから、商人よりも武士を目指す。諸国を放浪した末に織田信長の評判を聞き、珍妙な面構えを気に入られた藤吉郎は小者として仕え、機転を利かして寵愛を受けた。部下を持つ立場になると、指揮が巧妙で戦場の駆け引きに長け、巧みに部下の心をつかむ「人蕩し」の能力を発揮した。

 

 信長が勢力を拡大して上洛すると、木下藤吉郎から羽柴筑前守秀吉と名を改める。北近江の大名に任ぜられ、更には中国地方の覇者、毛利氏の攻略を命ぜられるほどの武将にまで出世する。毛利征伐の折に本能寺の変の報が入り、秀吉は衝撃を受けるも、すぐに気を取り直した。毛利氏と和議を結び、「中国大返し」と言われる昼夜を問わぬ強行軍を行って、山崎の戦い明智光秀を討ち取ることに成功する。これによって信長の後継者の名乗りを上げた秀吉は、その勢いで柴田勝家を賎ヶ岳の戦いで討ち取り、織田家の地盤を継承する。

 

  豊臣秀吉(ダイヤモンド・オンラインより)

 

 勝家の死後、障害は織田信長と同盟の関係だった徳川家康とあった。秀吉の足下を見透かした家康は、秀吉の「人蕩し」にも動じず、秀吉を大いに当惑させた。やがて秀吉と家康は小牧・長久手の戦いにおいて戦火を交えるが、ここで秀吉は手痛い敗北を喫する。

 

 局地戦とは言え秀吉相手に快勝を上げた家康の存在に苦しみながらも、秀吉は外交調略によって勢力を拡大していき、ついに朝廷から「豊臣」の姓を下賜され関白に任ぜられる。そして秀吉の妹と母までも人質として送り込まれた家康は、抵抗もここまでと判断して、秀吉の意向に応じて大坂に上ることを決める。

 

 面会前夜、家康は少人数で会いに来た秀吉の大度量にはかなわないと心服する。そして天下統一を果たして十余年の後、この稀代の「演者」は、次の辞世を残して世を去る。

「露と落ち露と消えにしわが身かな なにわのことは夢のまた夢」

 

【感想】

 司馬遼太郎は秀吉に対して、「義経」のように独自の視点から掘り下げていった。第1に「人蕩し」という性格で、衆日の人々に魅力を振りまく性格を表わした。蜂須賀小六竹中半兵衛、そして美濃の有力武将など、他の人にはできない魅力を振りまいて、次々と自分の傘下に収めていく。そして機転と度胸。放浪中にあった「初体験」の話は、子供の時に読んだ際はちょっと脱線気味の印象を受けたが、一度経験すると後は堂々とした態度を見せて、世間という「芝居」で演じるにふさわしい才能を印象づける

 第2は、秀吉の行動原理に、商人的発想を取り入れた。行商などで培った商人の働き方から、武士が平安時代から持っていた「御恩に対しての褒賞」という考えに対して、秀吉は受けた褒賞を「タネ(資本)」として、主人の信長に「大きくしてお返しする」考えを続け、信長から他の者にはない信頼を受けることになる。

 第3は、異例の出世のため周囲から受けた、やっかみが激しい立場を「横柄者(へいくわいもの)」と呼ばれることで表わした。後の作品「関ヶ原」で石田三成にも言われる呼び名だが、性格から見て大きな違いがある2人が、同じ呼び名で呼ばれるのが興味深い。謀略・知略での働きで出世したため、秀吉は槍働きで命を削っている武将たちから反感を招く。日本史上の「異例の出世」が、秀吉とその弟子、戦場以外で才能を発揮する弟子に共通した。

 但しそんな秀吉と三成の違いを、私は昭和から平成にかけて、田中角栄と小澤一郎の違いと重ねていた。「政治の天才」角栄と同じモノサシ(スケール)で計ることができる、唯一の政治家と思われた小澤一郎。政敵を懐柔して「巨大な中間地帯」を作り上げ、対立勢力を減らす努力を怠らなかった田中角栄豊臣秀吉。対して、自分以外を「敵と子分(菅直人の言)」に峻別した小澤一郎は、「武断派」に決して歩み寄らなかった石田三成に重なる。能力の点で師匠と同じスケールを持ちながらも、肝心な所で天下に手が届かなかった石田三成と小澤一郎は、なぜか響き合うものを感じる。

  *「今太閤」と呼ばれた田中角栄ウィキペディアより)

 

 話を戻す。人生という「芝居」、司馬遼太郎徳川家康服従するまでを描いて、その後は飛ばして辞世の歌のみを添えて物語を結んでいる。中にはその間「関ヶ原」等の作品で補っているとする解説もあるが、1つの小説として、そのような「片付け方」は理屈に合わない。天下統一やその後の秀次殺害、朝鮮出兵などを省略したのは、秀吉を描く「主題」が尽きたからであろうか。作品「義経」が、輝かしい戦歴を遂げた後、頼朝に追われて最後に至るまでは筆を省略しているのに似ている。

 そして最後に結んだ秀吉の辞世。「なにわ」とは現在の大坂の地名を意味するが、「浪花節」のように、世間の意味も含んでいる。たとえば後の作品「俄(にわか)」のような世間芝居、そんな意味も感じてくる。生涯で演じた「芝居」。なにわで完結したが、それもまた夢。それは中国の故事「邯鄲の夢(かんたんのゆめ)」を連想する。立身出世を極めるという体験をしたが、それは実際には店の主人が炊いた粟もまだ煮え切らないような、ごく短い間の夢にすぎなかった。この寓話は、日本一の出世をしながら満ち足りなかった秀吉にふさわしい。