小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

小説で読む戦後日本経済史① ドッジ・ラインから朝鮮特需 (1945~1950)

1 終戦後の状況 

 第二次世界大戦の敗戦により、日本経済は混乱を極める。財閥の解体、物流の寸断、不足する物資、復員兵や引揚者の帰国による急激な人口増。GHQは戦前の財閥による資本集中が戦争に導いた要因の1つと断定した。「軍需から民需へ」を方針として、財閥の解体軍需産業における経営責任者の公職追放独占禁止法の公布、労働組合設立の推奨を行い、経済民主化政策(戦後改革)を行った。その自由化路線は、アメリカ本国よりも過激と言われ、当時のGHQ内での経済学派のイデオロギー論争にも影響されていたと言われている(ジェームス三木憲法はまだか」)。

 

2 ハイパーインフレの加速

 終戦後、軍需予算による国債軍票が一斉に償還されたためハイパーインフレーション(戦後インフレ)が発生した。基幹産業が操業を再開すると資源配分を主要産業に振り向ける傾斜生産方式が行われ、大規模な金融緩和を行った。復興金融金庫が巨額の融資を行い、インフレーションが更に加速することになる(高杉良「小説 日本興業銀行」)。

 

3 ドッジ・ライン

 このため、1948年12月に経済安定9原則が勧告、翌年3月にはドッジ・ラインが実施され、緊縮財政、公務員や公企業の人員整理、1ドル360円の固定相場の設定などが行われた。更に、傾斜生産方式を主導した和田博雄(農林省出身の官僚だが、吉田内閣で農林大臣に抜擢された後、社会党の国会議員になった変わり種)がインフレを抑えるため、農地改革を行った。これらの政策でインフレは収束したが、今度はデフレが発生し、安定恐慌(ドッジ不況)と呼ばれた(城山三郎「小説 日本銀行」)。

 この当時、主税局長から大蔵省事務次官になった池田勇人は、「とにかく徴税することが国のためになる」と厳しい取立をしてきたことを告白している(伊藤昌哉「池田勇人とその時代」)。

   *池田勇人ウィキペディアより)

 行き過ぎた労働運動を警戒したGHQが、ゼネスト中止令や下山事件に代表される事件が起こり、取り締まりを進めるため労働運動弾圧政策に転換する(城山三郎「男たちの経営」)(デイビッド・ハルバースタム「覇者の驕り」)(松本清張「日本の黒い霧」)。反面、それまで共産党の主要な支持母体であった農村部では、農地改革により急速に支持を失っていった。

 

4 朝鮮特需

 1950年に朝鮮戦争が勃発する。かつてアメリカがヨーロッパで起きた世界大戦の戦場にならずに好景気を謳歌したように、日本でも戦争の前進基地として朝鮮特需(特需景気)が発生し、それを機に混乱が続いていた日本経済は大きく息を吹き返した。城山三郎「当社別状なし」黒木亮「鉄のあけぼの」

 

5 影響

 財閥の存在は、戦前の「幼年期な」日本経済においては、それこそ資本を「傾斜」して一部に集中し、産業を牽引する存在も含めて必要だったのだろう(アメリカのロックフェラーやモルガン、そして最近の韓国の財閥グループと同様)(小堺昭三「小説野村証券-財閥が崩れる日」)。

 第一次大戦ベルサイユ条約でドイツは巨額の賠償金を求められ、その原因で起きたハイパーインフレヒトラーを生み出したが、GHQもその反省を踏まえて、第二次大戦では「首の皮一枚」残す占領政策をとった。そして日本経済は、財閥の解体や公職追放によって経営陣が大幅に若返り、官僚機構は生き残る。朝鮮特需を契機としてGHQの思惑から外れて、「官民一体」となってその後の高度成長を演出することになる(城山三郎官僚たちの夏)。

(データはウィキペディアから引用しています)