小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

11 小説 日本興業銀行 高杉良 (銀行:1988)

【あらすじ】

 産業金融の雄、日本興業銀行が辿った波瀾万丈のドラマを描く。戦前の創成期から始まり、終戦直後にはGHQの意向により存続危機に見舞われ、そして戦後には日本経済界を彩る幾多の人材を輩出。日銀特融を初め様々な局面にあって、危機を回避して打開策と取り、産業界の重要な決断の背後に常に存在して重きをなしたトップ銀行の盛衰を、「財界の鞍馬天狗」中山素平を中心に描く。

 

【感想】

 就職活動をするまではその意味を知らなかった「長信銀」という銀行形態。その中でも金融業界に君臨する日本興業銀行。たまに「ワリコー」などのCMを見たが、身近な所に支店がなく、一般庶民にはなじみがなかった銀行。

 だが企業が、社債など直接金融で基金を調達する手段が乏しかった時代に、銀行は頼みの綱だった。その中でも金融債を発行して長期資金を大規模に融資する長信銀の役割は大きかった。そして戦前の「国策銀行」としての教えが戦後も生き続け、企業を育て、国を育てる意識が根付いていた。戦前の第6第総裁結城豊太郎山形県南陽市にある結城豊太郎記念館に一度お邪魔したことがある)の言葉「興銀は質屋ではない。物的価値だけで金を貸すのだったら質屋と同じじゃないか」という言葉や、日本開発銀行に派遣された興銀マンが国会に呼ばれて興銀式の融資判断方式をレクチャーする場面などは、強く心に残った。

 そのため、経済界の様々な場面で興銀が登場する。政府の意向を踏まえた「国策」を民間で実行する部隊であり、またニュートラルな立場で様々な利害関係を調整する「唯一無二」の存在でもある。そして中山素平が興銀の実権を握るころは、戦後に成長してきた日本経済に調整局面が訪れて、興銀の役割は飛躍的に増える。

 第1に「アラビア太郎」。1958年、アラビア石油の設立幹事を務めた。当時は「山師」扱いだった山下太郎を信用して、国産の石油会社の誕生を支援。のちの石油ショックの際にも貢献する。

 第2に海運業界大再編。後にロッキード事件に巻き込まれた運輸省の若狭海運局長と組んで、1960年頃に乱立する海運業界を合併などで集約化して、業界の危機を事前に回避した。

 第3に証券不況対策。1965年、田中角栄蔵相が決断した日銀特融に立ち会い、また日本共同証券を立ち上げて株価底上げに尽力。なお山一・日興両証券とも危機を想定して事前に社長を送り込んでいる。

 第4に自動車業界再編。証券不況と同時期、日産とプリンスの合併を行い、日本2の自動車メーカーを誕生させた。当時日産を牛耳る川又社長は興銀で中山の同期。抑えられるのは中山だけだった。

 第5に製鉄業界再編。1970年、八幡製鉄と富士製鉄の合併を支援し、世界第2位の新日本製鐵を設立した。特に富士製鉄の永野社長は財界四天王と言われたうるさ型で、調整も大変だった様子。

 

 これだけではないが、様々な利害関係を調整する役割として、興銀の実績を背景とした、人の繋がりが重要なことがよくわかる。過去の先輩たちが産業界に寄与してきた「益荒男派出夫(相手先に赴き、会社を再建する)」としての歴史と、中山素平を中心とする現役行員の人間性が、日本の産業界を動かした。

 しかし興銀は、本作品が発刊された10年後にみずほ銀行に統合され、その名を消す。住専や個人料亭への過剰な融資など、興銀もバブルに巻き込まれて経営が悪化し、また企業も直接金融が可能となったため、興業銀行自体の存在意義が失われてしまった。

 文庫本の解説では、本作品を「経済版青春の門」と評されている。そして戦後経済の「青春」と「朱夏」が過ぎるとともに、その役割を終えて、消え去ることになる

 全五巻に及ぶこの長大な物語は、興銀の「墓碑銘」となってしまった。

*後年、改めて中山素平を取り上げて作品を著しました。