小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

11 名君の門(森忠政) 皆木 和義(2005)

【あらすじ】

 六男の千丸が生まれた年に父と長男が亡くなり、次男の長可家督を継いだ名門の森家。三男の蘭丸、四男坊丸、五男力丸の3人は織田信長の近習として仕えていた。千丸が12歳の時信長にお目見えするが、御前でも先輩の悪戯を許さない峻厳な性格から、信長は千丸を小姓ではなく武将向きとして実家に返される。

 

 しかし本能寺の変が起き、三男の蘭丸以下三人の兄は、信長と共に命を落とす。その時当主の長可は、新領地の信濃川中島に出向いて留守。明智勢が迫る中、森家と誼のある甲賀流忍者、伴惟安の手引きによって母の妙向尼と共に匿われ、命を長らえることができた。

 

 明智光秀羽柴秀吉が討ち破り、当主の長可も、反乱が頻発する信濃から何とか脱出できた。今後、森家は信長死後の行く末を定めなくてはならない。隣接する美濃の織田信孝から人質を求められるが、秀吉と対決が予想されていたため、人質は命の危険があった。しかし千丸はお家のためにと、自ら進んで人質を受け入れた。案の定、間もなく秀吉からの勧誘があり、秀吉に与する意見が大勢を占める。人質の千丸は忍者伴惟安らの活躍で美濃岐阜城から救い出され、またも窮地から命を救われた。

 

 見込み通りに羽柴秀吉が天下人への道を歩み、森長可も秀吉配下の重臣として大大名への道が開かれていたかに見えたが、長可は小牧長久手の戦いで戦死してしまう。その時長可は、幼い弟の千丸は秀吉の近習とし、領地は有力武将に譲る遺書を残していた。しかし秀吉は、戦死した功労者の領地を没収することはできず、14歳の千丸こと忠政に家督を譲ることを認めた。

 

 翌年、富山の佐々成政征伐で忠政は初陣を飾る。軍勢の中には小牧長久手の戦いで同じく父を亡くした池田輝政や、昔から兄と慕う細川忠興もいて、2人から学ぶことで武将とは何かを吸収していく。同時に「人たらし」のオ能を見せつける秀吉に心服していく。秀吉と対立していた徳川家康が上洛する日、何か起きると身構えていると、秀吉が単身家康の元に向かっている。

 

  森忠政ラジオ関西

 

 危険を感じて警護に当たるが、秀吉は忠政を遠ざけると、家康と1対1で対面して工作をする。翌日、諸大名の前で家康に平身低頭させる「芝居」を見せるのには舌を巻いた。その影響か、小田原の北条征伐では、籠城する北条氏に大きな城を建てて町を作り大騒ぎをして、敵を心理的に追い詰める作戦を提言して秀吉を喜ばせる。

 

 秀吉薨去後は、兄事する池田輝政細川忠興に従い家康側に近づき、亡き兄の長可が領主を務めた信濃川中島13万7千石への転封が認められた。関ケ原の戦いでは真田昌幸を抑えるために領地に残り、そのため加増の恩賞はなかったが、その後小早川秀秋の死による改易がなされると、美作国18万6千石に加増転封が決まる。旧小早川家や旧宇喜多家の家臣が不穏な動きを見せる中、無事国入りを果たし、津山城を13年かけて完成させて、美作国を支配した。

 

【感想】

 

 源氏の頭領、八幡太郎義家の流れを汲む森氏。織田家でも忠誠を励み、一族は信長の側で次々と命を落としていく。本ブログでも次兄「戦国の鬼長可、三男の「乱丸」の作品を取り上げた関係もあり、末弟の忠政の作品も揃えたくなったもの。そんな主人公の本のタイトルが 「名君の門」とは象徴的。そして一向門徒で信長に抵抗を見せて乱丸を困らせた母妙向尼も、本作品では目立たないながらも顔を出している。

 

*三男の森蘭(乱)丸は信長編で取り上げ、本能寺の変で四男、五男とともに10代で命を散らしました。

 

 信長から、小姓より武将向きと判断された忠政。亡兄長可が領主となった信濃川中島に18年後に移封となり、そこで本能寺の際に兄を裏切った者を見つけ出して礫とするなど、年月を超えた激しい復讐を行なっている。また同地で検地を厳しく行なった結果増税となり、領民からは怨嗟の声が湧き起きるが、家臣が諫めるも聞く耳を持たず、ひいには国全体で一揆が勃発するまで発展する。それでも忠政は断固たる態度を示し、一揆勢に対しては容赦ない処罰を大量に加えた。この辺は「鬼武蔵」次兄の長可と同じ「武将の血」が流れている。

 翌年美作国に加増転封となったのは、家康がやりすぎと思ったのか、それとも信濃川中島の後釜が家康の子松平忠輝なので、その前の「地ならし」としての使命があったのかもしれない。その後隣国の改易もあり、出雲・石見・隠岐の3ケ国への加増転封の話が浮上したが、忠政が亡くなったために立ち消えとなった。

 森忠政は織田→豊臣→徳川の流れをサラリと渡り歩いたように見える。一応徳川方の池田輝政細川忠興との関連を触れているが、本作品では忠政と秀吉との深い交流が描かれているため、不自然な感は否めない。実際に石田三成が自ら信濃川中島に起き、森忠政に大坂方への参陣を求めたが、忠政は豊臣家批判を繰り広げて破談となっている。その態度に三成は「忠政との遺恨格別」と述べたほど、忠政に恨みを抱いた。

 

*次兄の森長可は秀吉編で取り上げ、小牧長久手の戦いで死去

 

 長兄可隆19歳、次兄長可27歳、三兄乱丸18歳、四兄坊丸17歳、五兄力丸15歳。兄たちが戦乱の中で短い命を終えた後で、織田・豊臣・徳川の三代を生き抜いた森忠政。しかし忠政の子は全て早世し、養子を貰うことで嫡流は途絶えた。その養子も後継に恵まれず、他家に出していた子を戻して後継としたが、その子が乱心したため、津山藩森家は改易となった。但し忠政が懇意にした池田家や細川家などの取り成しもあり、幕府は新たに2万石を与え森家は残され、明治まで続いていく。

 

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