小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

10 小説野村證券 財閥が崩れる日 小堺 昭三(1989)

   Amazonより

【あらすじ】

 明治11(1978)年、両替商の野村徳七(初代)の子に生れた信之介は、他店の見習いを経て家業に従事し、日露戦争そして第一次世界大戦の相場に強気に勝負に出て連戦連勝を飾る。父の隠居に伴い明治40(1907)年野村商店を継ぎ二代目徳七と名乗る。

 徳七は他社と比較して調査にお金を厭わず、人材の確保と当時は高価だった電話の増設などに踏み切って、いち早く情報を収集・分析する体制を整えた。また丁稚制度主だった採用活動に、学校教育を修めた学生出身や、女性社員を大量採用するなど、他社との差別化が図られた。

 大和銀行の創設そして現在の野村證券を独立させ、また南方に進出して資源の確保を求めるなど、様々な事業にも進出し、5大財閥に続く「野村財閥」を築き上げるも、敗戦色濃厚な昭和20年1月に死去。

 

【感想】

 野村證券創設の物語。戦後の混乱からバブルまでの飛躍の様子(そしてその後「高転びに転んだ」)経緯は、以前取り上げた「ザ・ハウス・オブ・ノムラ」で描かれた。今回は戦前までの実質的な創業者、(二代目)野村徳七の物語。

 *(二代目)野村徳七ウィキペディアより)

 

 世界最初の商品先物取引所と言われる堂島米会所を起源とする大阪証券取引所は、相場師という「名優」たちが相場という舞台で演じてきた。売り買いにお金を賭け、身代を賭け、名誉を賭け、そして命を賭けた相場師たち。一夜で巨額の富を得る者も居れば、同じ時間に身代を潰して命を絶つ者もいる世界。その中で徳七は、相場師から様々な情報を聞いて自分なりの判断で相場を張って連戦連勝を続ける。このあたりの描き方は、城山三郎の名著「百戦百勝」を彷彿とさせる。

 

nmukkun.hatenablog.com

 

 極端な表現になるが、日清戦争から第一次大戦までの乱高下する相場の中で、大阪で名を馳せる相場師たちが死屍累々と屍になった道標の先に、徳七1人が残った。その理由は判断力と決断力と言えるが、更に言うと情報を重要視してそのためには金に糸目を付けなかったこと。そしてもう1つは、情に溺れず、時には非常の決断が出来たことが挙げられる。

 日露戦争で株価が高騰した時、買いで儲けた徳七は途中から売りに転じるが、一向に相場が下がる様子がなく、徳七に危機が訪れる。しかし相場師として名高い岩本栄之助に頼み込んで売りに回って貰い、危機を脱することができた。但し岩本が相場に失敗して破滅を迎えた時は、徳七は手助けをせずに、岩本は自ら命を絶つことになる

 そして弟の実三郎の存在も大きい。積極的な相場を好む徳七に対して、堅実な実三郎は時に意見が合わず、対立することもあった。しかしソニーやホンダに見られるように、積極派の社長と堅実な補佐役の役割分担が車の両輪となる。第一次大戦後の好景気には、後に政界に進出する久原房之介が経営している久原鉱山の相場では、兄弟の活躍で見事に勝利し、「財閥」の基礎を作る莫大な財産を得る。

 ところが間もなく実三郎が急追する。その後の徳七は様々な事業を呑み込んで財閥を築き上げていくが、秀長亡き後の豊臣秀吉のように、周囲に耳を貸さなくなる。「三和銀行」誕生の際も土壇場で撤収し、野村の名前に固執する「裸の王様」となっていく。

 そのために作者は、相場師や弟の他に、本作品のもう1つ「補助線」を引いた。商業高校の美術教師、海野は徳七に「財閥は罪罰」と教える。海野は徳七が相場で大損失を被った時は、絵画展に入選して前途洋々な画家として、徳七が南方の資源会社を視察した時には、シンガポールで流浪の末に辿り着いたボロ着を着ている姿。得た者が失うことを恐れる「妄執」に付きまとわれるとの対照的に、失うことは何もなく、愛した現地の女性と一緒に暮らす。この2つの生き方を描くことで、徳七が築いた「野村財閥」が死後、GHQによって切り裂かれる姿が、より一層の悲哀を帯びることになる。但し野村證券は、次代を担う奥村綱雄等の尽力で、「野村」の名前が残ったまま現在に至る。

 

nmukkun.hatenablog.com

*(二代目)野村徳七が亡くなった後、復興する姿を描いています。