小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

14 東急・五島慶太の生涯 北原 遼三郎 (2008)

   *Amazonより

【あらすじ】

 1882〈明治15〉年、長野県の寒村で生れた五島慶太は、師範学校から教員となり、お金を貯めて東京帝国大学に入学し農商務省に入省、その後鉄道院に移る。但し苦学して大学卒業は29歳と遅れたため、年次が物を言う官界では先が見え、また官吏の仕事も性が合わなかった。そんな時武蔵電気鉄道からの誘いを受けて、38歳で官僚を辞して鉄道業界に飛び込むことになる。但し資金繰りに窮して事業は進まない。

 その頃渋沢栄一らが牽引していた、現在の田園調布など東京郊外に良質な住宅街を作る「田園都市構想」が実務家が不在で、田園都市に鉄道を延ばす計画のために設立した荏原電気鉄道(のちの東急目蒲線)とともに事業が頓挫していた。阪急の小林一三に断られたため、鉄道院で知遇を得ていた五島を推薦する。五島はまず荏原電気鉄道から経営改革に乗り出し、電車の開業に成功。翌年の関東大震災で人が郊外に移ったことも相まって田園都市構想が軌道に乗せた。その資金で武蔵電気鉄道の株を買い占めオーナー社長となり、東京横浜電鉄として東横線を開通させて、東急グループを拡大していく。

 

【感想】

 今で言えばパワハラ上司に当たるのだろう。何ともエネルギッシュな人物である。予算や納期からみて無謀、相手がある話なのにこちらの都合を押しつける。建築基準法や交通に関する法律に抵触する計画でも「何とかしろ、だからお願いしているんだ」と言って部下に無理難題を押しつける。できないと「なぜできないんだ」とカミナリを落とす。但し計画が完遂した時は誰よりも褒めてお礼をする。

   五島慶太ウィキペディアより)

 

 こうしていくつものハードルを何度も飛び越えて、強引な計画と実行力、そして事業拡大のために相手をどんどんと呑み込んでいくやり方から「強盗慶太」と呼ばれることになる。東急線を開通させた後は、師と仰ぐ小林一三の事業を真似て、慶応大学を始めいくつもの大学を沿線に誘致してイメージ戦略に打ち出し、不動産、東横百貨店、映画産業の東映などに進出する。東横百貨店では三越を呑み込もうとして、池田成彬を頂点とする日本経済界の中心である慶応閥の「虎の尾」を踏み、撤退を余儀なくされた失敗もあった。

 東京地下鉄構想で、渋谷―虎ノ門からの延伸を当初の計画である新橋―東京ルートから、人流を考えて、繁華街である上野・浅草への延伸に変更させるために、地下鉄会社の社長を交代させる強引な手口を使うことになる。そして戦争下では統制経済の追い風もあって、東急は小田急京浜急行、京王、相模鉄道などを吸収していき、「大東急」として、今では信じられない鉄道網を築き上げる(戦後、GHQの指導によって、解体される)。

 終戦前年の昭和19年に東条内閣の運輸通信大臣に就任したため戦後公職追放に会い、その状態は6年間も続くが、「影のご意見番」として実質的に経営に関与していく。そして戦後も事業欲に衰えは見えず、名門百貨店の白木屋買収でも、「乗っ取り屋」の横井英樹に手を貸して世間を騒がす。

 そして昭和30年代、箱根の観光産業を巡って、昔から広大な土地を所有していた「ピストル堤」こと堤康次郎と、箱根まで五島系列として食い込んだ小田急電鉄による輸送シェアの争いが勃発する。互いに一歩も譲らず訴訟合戦や代執行、そして政界を巻込んだ争いにまでもつれ込んだ「箱根山戦争」を繰り広げる。その闘いの後、五島慶太が先に亡くなった時、堤康次郎は息子の堤義明に、せがれ(五島昇)とは戦争を続けないと語っていたという。経済活動の効率面を考えてのことだろうが、戦国時代武田信玄が息子・勝頼に、自分の死後は上杉謙信を頼るように言い残した故事が思い浮かんだ激しい闘いをしてこそ、相手の本当の姿が見えるのだろう

 

 *息子の五島昇を取り上げた、城山三郎の作品です。