小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

12 吉宗と宗春 海音寺 潮五郎(1943)

   *文春文庫(Amazon

 

【あらすじ】

 徳川御三家の1つ、尾張家の当主友の弟徳川宗春は、幕府で進めている倹約令に反発して、上の者がお金を使うことで町民たちが潤うと考える。そのため遊び仲間の芸州広島の浅野安芸守吉長や姫路の榊原式部大輔と、芸者を招いて倹約どこ吹く風とばかりに気勢を上げていた。

 

 7代将軍家継がわずか8歳で早世すると徳川宗家の血統は途絶え、尾張紀州、水戸の御三家から家督を継ぐ必要に迫られる。水戸は候補から外れ、尾張の継友と紀州川吉宗で争われたが、家格が高い尾張を有利とみた大方の予想を裏切り、紀州の吉宗が宗家を継ぎ8代将軍に就任する。次期将軍就任を信じていた尾張の継友は、失意の余り健康を害してしまった

 

 宗春らが気勢を上げる遊び場で、宗春は宝財数馬と出会う。安財は尾張藩主継友の家臣だったが、衰弱していく主君の姿を見るに忍びなく主家を無断で脱藩し、惨めな生活をしていた。その思いを知った宗春は、さりげなく将軍吉宗が御参詣する日光への行程を知らせる。食い入るようにこれを見た数馬は吉宗を鉄砲で狙撃するが、本懐をし遂げることなく終わってしまう。

 

 それから2年が経過したある日、江戸城から帰ってきた尾張藩主継友が突然倒れた。吉宗に毒を盛られたかと疑ったが、実際は極度に衰弱している中で酒を飲んだためで、そのまま亡くなってしまう。但し継友の死は、将軍争いに敗れ病に陥ったことが原因であり、宗春は兄の仇は将軍吉宗と定め、この恨みを必ず晴らそうとする。そんな決意を胸に、弟の宗春は尾張藩主の座に就任する。

 

  徳川吉宗ウィキペディア

 

 さっそく宗春は尾張藩に改革三ケ条のお触れを出した。その内容はことごとく、倹約を旨とする吉宗の「享保の改革」に反するものとなっていた。まるで将軍吉宗に当てつけるかのような宗春の政策。吉宗は心中穏やかではないが、その気持ちを押し殺した。吉宗の懐刀として、米価の安定に心を配る町奉行大岡忠相は、そんな吉宗の心中を推し量って心を痛める。しかし大岡は宗春と対決すると、宗春によって、格の違いを見せつけられる。

 

 こうした中、宗春が名古屋から姿を消して密かに上洛していた。当時朝廷は緊縮財政を敷いて不景気を招いている幕府の政治に不満を持ち、積極財政を図る尾張の宗春に期待を寄せていた。朝廷を巻き込んだ対立となると、幕府も動かざるを得なくなる。

 

 尾張藩内でも、余りにも鮮明な反幕府の方針に対し危機感が募り、家臣団でも幕府派と反幕府派が対立していた。そして吉宗はついに断を下す。切腹を覚悟した宗春だったが、結果は隠居の上蟄居。そして宗春が定めた改革三か条のお触れは全て破棄されて、尾張藩も倹約令が引かれた。反動による景気の後退によって、尾張藩の巨額な財政赤字に陥ってしまった。

 

  

 *宗春は当初「通春」でしたが、藩主就任時に吉宗の偏韓より、改名しています。



【感想】

 「天下,町人に似たり 尾州,公方に似たり 水戸,武士に似たり 紀州,乞食に似たり

 かなり強烈な落書が広まった享保の改革の時勢。緊縮財政はその必要性はともかくとして、市中の人気は得られない。明治以降も、デフレ政策を遂行して生涯を全うした政治家はいないと言われたが、たとえ征夷大将軍でも、不人気は免れない。

 先に取り上げた大岡忠相を描いた作品で、享保の改革は大方網羅したが、尾張との対立だけは触れていない。紀州藩主の四男で身分の低い侍女を母とする徳川吉宗は、本来部屋住みに終わり、紀州家督を継ぐ資格がなかった。しかし将軍綱吉と偶然お目見えができたことで独立して支藩の藩主となる。

 それでも万々歳なのに兄たちが早世してしまい、あれよあれよという間に紀州藩主に収まった。ところが「強運」は更に続く。徳川宗家の血統が途絶えたことで、紀州藩主としての改革の実績と、尾張藩は前藩主が亡くなって間もないことから、将軍に上り詰めることになる。

 吉宗は破綻した幕府財政を立て直した改革の主導者として、徳川幕府中興の祖とまで呼ばれ、称賛する向きも多いが、海音寺潮五郎偏狭で器の小さい人物として描いている。対して本作品の主人公とも言える宗春を、颯爽とした大人物として、吉宗と対照的に描いた。それはまるで「一夢庵風流記」の主人公、傾奇者の前田慶次と重なる。宗春が藩主となって尾張に初入部すると、積極政策を打ち出して好景気に沸く尾張には多くの人が流れ込み、この政策が現在の名古屋の繁栄につながっている

 

  徳川宗春ウィキペディア

 

 その縦横無尽な行動力と、幕府をも恐れぬ胆力。そして心に秘した恨みを出さずに、ひたすらに政策論争として吉宗と争った智謀。しかし吉宗にも幕府財政破綻という現実の問題が目の前にあり、宗春の路線は到底受け入れられない。将軍継嗣の争いからこじれた紀州尾張の争いは、最後に将軍が御三家の当主に蟄居を命じるまでに至った。そして宗春の死後も、しばらくは罪人扱いのまま、墓を金網で囲ってしまう。

 更に吉宗は、仕返しを恐れた。将来尾張から将軍が擁立されると、紀州の立場はなくなると危惧する。そのため「神君以来」の定めを破り、御三卿という制度を創設して、尾張から将軍が就任する可能性を、封じ込めた。

 

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