小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

15 十五万両の代償 十一代将軍家斉の生涯 佐藤 雅美(2007)

【あらすじ】

 10代将軍徳川家治の唯一の男子である家基が急死した。吉宗の血が濃く英邁と評判も高い、田安家の定信が後継として相応しいと思われたが、定信は田沼意次によって白河松平家に出されていた。一方一橋家の治済は、家治の子を身籠もった側室を貰い受け、子として育てていた。家治はその子の家斉を養子に迎えて、後継に据える。

 

 家治と田沼意次によって将軍に就任した家斉だか、真っ先に田沼意次を失脚させる。意次への恨みが残る松平定信は、家斉の父治済を通じて将軍後見人か老中の職を求め、田沼政治を根絶することに執念を燃やす。治済も我が子家斉が田沼意次の傀儡になることを恐れて、定信と手を組む。

 

 定信の性格は剣呑で陰湿だった。寛政の改革と呼ばれた定信の政道は、質素倹約に徹底する、将軍家斉の意向を全く無視したもの。その上実権を掌握していることを背景に、何度もお暇と願い出る「脅し」で、反対意見を封じ込めた。家斉は父治済に大御所の称号を与えようとするが、定信は先例がないとにべもない。家斉はついに定信の何十回目かになるお暇乞いを許し、老中を解職してしまう。

 

 邪魔者の松平定信がいなくなると、家斉は側用人水野忠成を重用した。忠成もその望みに応えて、政道を改めて貨幣改鋳を行ない、景気浮揚策を用いて化政文化の時代を演出した。加えて忠成は、家斉が念願だった父治済を従一位准大臣まで官位を上げる朝廷工作を行い、家斉の信任を厚くした。

 

  徳川家斉ウィキペディア

 

 家斉の期待に応えた水野忠成は有能だった。水野忠邦が移封される際、取れ高が減少するために加増を願い出たが、参勤交代の節約など収支を自ら算盤を入れて示し、現在のままで充分と断じて、忠邦の意見を退けるほど。しかし勝手掛老中として田沼意次を超える金権政治を行ない、「水野出て 元の田沼と なりにけり」と町民から言われる始末だった。

 

 家斉の「親孝行」が裏目に出た。水野忠成は朝廷工作のために、朝廷とは強いパイプがある薩摩藩を利用した。代わりに財政難に苦しむ薩摩に対し、長崎貿易の利権を一部譲っていたことが後日判明する。これが原因で、時代を経て長崎貿易は赤字となり、幕府がその尻拭いをさせられるが、その時水野忠成はこの世からは消えていた。

 

 自らのわがままで15万両を超える「代償」を払うことを知った将軍家斉は、禍根を残したまま薨去。そして家斉の死を待っていたかのように、老中水野忠邦がかつてない倹約を求める天保の改革を行ない、市井を不景気のどん底に陥れる。市中で人気のあった町奉行矢部定謙を追放して、配下の鳥居耀蔵町奉行に起用、その後勘定奉行に抜擢し蛮社の獄を主導して市民から敵視されると、忠邦も諸大名、町民ともども嫌われて幕閣から追われた。

 

  松平定信国立国会図書館

 

 

 

【感想】

 1787年の将軍就任から1841年に大御所として亡くなるまで半世紀以上幕府に君臨して、「寛政の改革」から「文化文政時代」そして「大御所時代」と極端な政策に関わった徳川家斉。そして20人を超える側室を持ち、「オットセイ将軍」として53人とも言われる子を成したことでも有名。しかしその子の多くは各藩に養子として出されるも、いずれも短命で直ぐにその血統は途絶える。

 対して最後まで家斉の血統を入れることを拒んだ水戸藩は、水戸斉昭(烈公)の血統として15代将軍慶喜始め、各藩の親藩に養子を出した。この一橋系と水戸系の血統の争いは、隅のマスを残した水戸系が、オセロのように盤面をひっくり返していく。そして本作品は、水戸斉昭が担った幕府滅亡の遠因や、家斉死後行なわれた天保の改革で幕府の寿命を縮めた経緯まで至る。

 

  *積極財政派の水野忠成(ウィキペディア

 

 本作品では江戸時代の3大お家騒動に数えられる仙石家の騒動を、多くの紙面を割いて取り上げている。この騒動は藩財政が破綻する中、財政改革派と反対する勢力の対立が、藩主の急死と重なり紛争が拗れ、老中や寺社奉行まで巻き込んだ争いに発展する。結局老中松平康任は失脚し、水野忠邦が権力を掌握し天保の改革に着手する。

 天保の改革水野忠邦の「実戦部隊」となった鳥居耀蔵は、まるで平家物語のように町民を陥れて、残虐な弾圧を加える様子を描いている。そのために鳥居と対立した北町奉行遠山景元(遠山の金さん)が町民の救世主として人気が上がった。その鳥居も親分水野忠邦が「上知令」を提言して、諸大名から猛烈な反対を受ける姿を見ると親分を裏切って、情報をリークして水野忠邦失脚のきっかけを作った。

 しかしその後水野忠邦が一時的に復帰すると、鳥居耀蔵は罪人として全財産没収されて幽閉生活を送るようになる。同じ幕臣の栗本鋤雲から「刑場の犬は死体の肉を食らうとその味が忘れられなくなり、人を見れば噛みつくのでしまいに撲殺される。鳥居のような人物とは刑場の犬のようなものである」とまで言われた人生。11代将軍家斉死後の話であるが、佐藤雅美はここまで描いて、徳川幕府で最後の将軍らしい将軍を描いた。

 

  *緊縮財政派の水野忠邦ウィキペディア

 

 失敗に終った天保の改革の10年後にペリーが来航し、幕末になだれ込んでいく。以降は、江戸中期から末期にかけて、中央と同じく支配体制が軋んできた、地方を舞台とした作品を取り上げます。

 

 よろしければ、一押しを m(_ _)m