小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

17 幽斎玄旨(細川幽斎) 佐藤 雅美(1998)

   *Amazonより

 

【あらすじ】

 山城国長岡の青龍寺城の城主細川兵部大輔藤孝に、13代将軍足利義輝弑逆の一報が入り、自分も狙われていることを知る。藤孝は幕臣三淵晴員の次男だが、母は元は12代将軍義晴の室で、義輝の腹違いの兄と言われていた。藤孝は危機を逃れ、義輝の弟で出家していた覚慶を救い出すと、擁立して足利幕府復興を目指すが、そのためには上洛が可能な近隣の有力大名に頼る必要があった。

 

 まず身を寄せた朝倉義景は、上洛する意思がない。そこで同じく朝倉家に身を寄せていた明智光秀から、美濃を攻略して勢いのある織田信長に頼ることを勧められる。義昭を庇護することに応じた信長は、三好三人衆を京から駆逐し、瞬く間に義昭を擁して上洛に成功した。

 

 15代将軍となった義昭は次第に権威を振りかざし、将軍を支配下に置きたい信長と対立する。そして藤孝も信長に接近するが、あくまで将軍を支えようとする兄の三淵藤英らと対立し、引いては義昭からも遠ざけられる。そんな藤孝に明智光秀は「堂々と」信長に味方するように説得し、藤孝は心を定めて織田信長傘下の武将となる。やがて信長は反乱を重ねる義昭を京から追放する。

 

 藤孝は多忙を縫って三条実枝から「古今伝授」が授けられた。その間光秀の三女、玉を藤孝の息子の与一郎(忠興)の嫁に貰い、光秀の寄騎として戦場を駆け巡っていた。しかし光秀は藤孝に相談せずに本能寺の変を起こし信長を弑逆する。光秀に近い藤孝だが、光秀の没落を予測した藤孝は、剃髪して幽斎玄旨と名乗り家督を息子忠興に譲ることで、光秀とは一線を画す姿勢を見せる。 幽斎の予測通り、羽柴秀吉が「中国大返し」で光秀を山崎の戦いで破り、天下人への道を進む。

 

  細川藤孝(幽斎:ウィキペディアより)

 

 幽斎は隠居を機会に歌道に専念しようとするが、秀吉はこれを許さない。千利休と2人で豊臣政権の文化面を支えることになり、造作や築城、茶や歌など文化面の指南役となる。しかし秀吉は甥の秀次を自害させると、古参の前野長康に死を命じると共に、息子の忠興も秀次との関係で危機に陥れる。また仲間でもあった千利休もあらぬ疑いで自害を命じられたこともあり、秀吉から次第に心は離れていく。

 

 秀吉が薨去し、徳川家康石田三成が争う事態になると、忠興は父幽斎の進言もあり、徳川方に味方し上杉征伐に従軍していった。その間石田三成が兵を挙げ、まず忠興の妻で光秀の三女、玉(ガラシヤ)を死に至らしめ、続けて幽斎が留守番をしていた舞鶴城に西軍15,000人が囲む。大半の軍勢を忠興が引き連れたため、わずか500人しかいない中、幽斎は講和を拒否し籠城して抗戦を続ける。

 

 そこへ古今伝授の継承が途絶えることを憂いた朝廷の命によって講和が命じられる。関ケ原の戦いが起きたのはその2日後だった。窮地の中でも自ら屈することなく、幽斎は細川家の面目を保った。これにより息子忠興は20万石加増され39万9千石を拝領し福岡小倉藩藩主に、その後肥後50万石の大大名として幕末まで続く。

 幽斎はその後10年生きて、京で悠々自適な生活を送り、往生する。

 

 *「麒麟がくる」では、本能寺の変までの細川藤孝を、眞島秀和が「誠実に」演じました(NHK)

 

【感想】

 本能寺の変に向けて、元足利義昭の家臣2人について触れていきたい。まずは光秀と関係が深く、作家によっては本能寺の変の黒幕とも目される細川藤孝。本作品では丁寧に、シンプルに描いている。

 歌道は古今伝授を受け、茶道は利休と同じ師匠を待ち、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、当代随一の教養人でもあった。武芸でも剣術は塚原ト伝に学び、弓術や馬術も当代一流の師匠から認められ、牛の角をつかみ投げ倒したという逸話もある。

 足利3代将軍義満や8代将軍義政が有した文化的な資質と、実弟と思われる13代将軍義輝の「剣豪」としてのオ能が共に合わさったかのようで、こうして考えると、12代義晴の子として足利の血を汲んだという話は、信ぴょう性を持つ。

 但し足利、織田、豊臣、そして徳川と4代に渡り重要な地位で渡り歩き、「政界遊泳術」に長けた点が強調されている節もある。それはそれでオ能と思うが、本作品では義昭から信長に移る時は光秀の説得という形で、光秀から秀吉に乗り換える時は秀吉の能力を見抜いて、そして豊臣から徳川に移る時は、秀吉が行った治世への不満などを理由に描いている。

 そして主君を替えることも、乱世では当然であることを、光秀に言わしている点が大きい。光秀は本能寺の変で信長に反逆するが、その前にまず斎藤家を見限り、その後朝倉家からも去り、そして自分の運を開いた足利義昭からも離れている「転職の達人」とも言える経歴を持っている。そんな所と対比させて、細川藤孝の「正続性」を際立たせようとしている。

  関ケ原の戦いで、舞鶴城に籠城して戦いを長引かせ、朝廷の仲介を受けたことは、幽斎が一子相伝の「古今伝授」を利用したイメージがあったが、実際は古今伝授を受けた三条実枝の子に「お返し」済だったにも関わらず、その子が先に亡くなっていた事情を本作品で知った。

 

  

 *細川幽斎舞鶴城開城後、烏丸光広に古今伝授を行ない、合わせて寄贈した国宝「古今伝授行平」(刀剣ワールドより)

 

 本来は12代将軍の長男であったはずが、「弟」たちを支える立場になった細川藤孝。仲違いしてしまつた義昭は、秀吉政権になって備前の靱で無柳をかこっている時に秀吉に進言して京に戻し、亡くなった時も率先して葬儀を仕切ったという。

 文武を兼ね備えた藤孝が足利将軍職を継いでいたら、足利幕府はどうなっていたか。しかし先を読むに鋭敏な嗅覚を持つ藤孝は、足利の血を前面に出すと「弟」たちと同じ運命を辿ると、察知していたのだろう。

 そしておよそ400年後、子孫の細川護熙が総理を拝命した(短命内閣でしたね)。

 

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