小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

13 主殿の税 田沼意次の経済改革 佐藤 雅美(1988)

【あらすじ】

 紀伊藩の足軽だった田沼意行紀伊藩主徳川吉宗の近習として仕えていたが、吉宗の将軍就任に従って江戸に移り、600石の旗本となった。その嫡子田沼意次は吉宗の子家重の小姓となるが、言葉が不明瞭な家重の意図を酌み取ることできて重用される。家重が9代将軍に就任すると徐々に加増され、ついには大名にまで出世する。家重亡き後も10代将軍家治の信任は厚く、側用人から老中格、そして老中にまで出世し、権勢は揺るぎないものになり「田沼時代」を迎える。

 

 吉宗の時に倹約と年貢の増収を主とした改革を行ない、一時の財政危機から金銀を蓄えるまでに回復したが、その後の放漫経営でまたもや幕府の金蔵は危機を迎えた。頼みの年貢引き上げ策は、各地で一揆を誘引していた。一揆の裁定を行なう意次は、米に頼る財政改革は限界に来ていると悟る。

 

 田沼意次は経済を活発化させて、商人から課税を取る方向に舵を切る。元々は物価安定を目的とした株仲間だが、意次はそこから運上金冥加金を課税することを目的とした。また長崎貿易を推進して運上金の増額を目論む。更には蝦夷との貿易の可能性にも賭けて、蝦夷地開発にも乗り出す。他にも印旛沼の開拓工事など、手当たり次第とも言える政策に取り組むが、いずれも思い通りにいかない。

 

 貨幣改鋳を図りお金の流通を促進させて、民需を高めて財政に寄与させようとするも、賄賂が横行されたとして、成り上がり者の意次に対する風当たりは強くなっていく。そして富士山の噴火を始めとする天災や洪水が立て続けに発生して、米価は高騰して世情の不安は高まった。

 

   田沼意次(産経ニュースより)

 

 そんな折、意次が若年寄に抜擢した子の意知が旗本の手で虐殺される。周囲は田沼親子をやっかみで見ていたため、その時を機に米価が下降したこともあり、殺害した佐野政言は「世直し大明神」とまで言われるようになる。

 

 11代将軍家治の嫡子家基が急死して、後継に吉宗の四男の孫にあたる家斉が選ばれる。本来ならば英邁で名高い吉宗の孫にあたる松平定信が、血統的にも資質的にも将軍に相応しかった。田沼意次はその前に、定信の将軍就任の目を潰す白河藩主に押し込んだが、これは家治が日光参詣を望んだため、御三卿の1つである田安家を潰して資金を捻出するためだった。また後継となった家斉は10代将軍家治の落胤であり、子を身籠もったまま一橋治済に下げ渡した事実も、定信は知らなかった。

 

 家治の心中の思いを実現させた意次だが、家治が亡くなり家斉が将軍に就任すると、将軍の父一橋治済の支援のもと、松平定信が老中として幕閣を支配していく。意次によって将軍職から遠ざけられたと恨む松平定信は、将軍家斉の威光を背景に意次を失脚させる。それでも収まらない定信は、69歳の意次を蟄居、慎を命じて幽閉させる。田沼意次は失意の内に亡くなるが、松平定信は死後も田沼家に容赦なく、城は破却され減封の上陸奥に移封された。

 

 

     *吉宗から家斉(家済)に至る系図

 

【感想】

 本作品が発刊されたころは、ロッキード事件で逮捕された田中角栄自民党支配が全盛の頃で、「成り上がり者による金権政治」として田沼意次と並べて評されたもの。しかし田中角栄死後、ロッキード事件について冷静な考察が行なわれ、更には政治家田中角栄に対する再評価が行なわれている。

 田沼意次も賄賂による金権政治のイメージが先行したが、経済理論からすると徳川吉宗松平定信による倹約を中心とした改革政策に対して、マネーサプライによる景気回復策は理に適っていると再評価されている。ちなみに私自身は田中角栄よりも5代将軍綱吉時代に仕えた荻原重秀と重なる印象が強い。共に共通するのは世評の毀誉褒貶に対して自ら語ることなく生涯を終え、後継たる「コチコチの儒学者新井白石松平定信の著作によって、罵詈雑言を浴びせられていること。そのため歴史的史料として残る新井白石松平定信は善、荻原重秀と田沼意次は悪のイメージが、長い間に染みついたと考える。

 そして本作品が発刊されたころはもう1つ、今で定着した消費税を導入するかどうかでもめていた時代。上知令を行ない、各藩の「金城湯池」を幕府が召し上げようとする一方、余り効果が上がらなかった運上金の制度は、広く浅く税金を徴収しようとした目的があったと佐藤雅美は考察している。直接税間接税という二重課税の問題とともに、税の平等性について取り上げ、田沼意次を通して、江戸幕府は設立時に、全国民から税金を徴収する権利を確保しないことで禍根を残したと指摘している。

 しかしこれはどだいムリな話。幕藩体制はもともと戦国大名の分割統治から発展した形であり、究極の地方自治の体制である。徳川家康も元々地方の領主の1人であり、そこから秦の始皇帝のように(若しくは織田信長が心の底で企んだと想像される)全てを平定させて強力な中央集権国家を建設するまでには至らなかった。反面幕府は各藩に軍役を課し、お手伝普請や参勤交代などの「公共事業」を行なって経済政策を振興させている。

 こちらもまた温故知新。田沼意次を読んで昭和の、そして現代につながる問題を考えさせられた。

 

 

 *田沼意次の子意知を殿中で暗殺した佐野政言切腹となりお家断絶となりましたが、市中からは「世直し大明神」と呼ばれ、慕われました(ウィキペディアより)

 

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