小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

3 女龍王 神功皇后 黒岩 重吾(1999)

【あらすじ】

 播磨国の一地方を支配する葛城垂水王の娘、葛城高額媛は一族のムジナを愛していたが、ヤマトの三輪王朝崇神天皇の皇統)の息長宿禰王との婚姻が決まっていた。その直前、媛は龍神の力でムジナと共に召され、ムジナの子を身籠もる。媛はそのまま息長宿禰王に嫁ぎ、息長姫(のちの神功皇后)を生む。

 

 愛する高額媛と離されたムジナは、失意の中「海人」として南九州へと渡り、隼人族の王に仕える。朝鮮半島への航海の途中で嵐に遭い若狭国に漂流するが、そこには海の神に仕えるために敦賀に来ていた高額媛の娘、息長姫がいた。2人とも運命の出会いを感じるが、ムジナは漂流中記憶を失い、姫が高額媛の娘とわからない。息長姫はムジナに建人(タケル)と名付け、側に仕えるように命じる。

 

 卑弥呼の娘、台与が北九州から大和に政権を移しておよそ100年(こちらもサラリと触れている)ヤマトタケルの子タラシナカツヒコ王子(後の仲哀天皇)は、衰退する三輪王権を再興しようとしていた。息長姫を見た王子は、美しさと共に巫女の力からも王妃に相応しいと惚れ込んだ。しかし息長姫は傲慢な王子との婚姻を嫌い、海の神に仕えることを理由に婚姻を2年後に延ばした。ムジナと会ったのは、約束の2年になろうとしていた頃だった。

 

 息長姫はムジナと会って、王子との婚姻に頭を痛めると、婚姻の直前に龍が舞い降り、母親に続いて奇跡を起こす。息長姫のお腹に子を授け、胎内で2年間育った後に生まれると告げられる。

 

 息長姫を王妃にして念願の王に即位したタラシナカツヒコ王(仲哀天皇)だが、姫尊(ヒメノミコト)となった息長姫の「神威」が壁となり、思いのままにできない。そこで王は熊襲を征伐し、力を誇示して姫尊を心服させようとするが、姫尊と建人は反対する。従わない王に対して建人は、熊襲征伐に協力すると見せかけて王の腹心である川魚を殺害し、王に重傷を負わせた。王の権威は次第に落ちていく。

 

 

 神功皇后ウィキペディアより)

 

 対して姫尊は巫女の能力を用い、神懸かりを九州の王たちに見せつけて心服させる。そして建人も縁のあった諸県(宮崎県)に赴き、南九州をまとめていく。

 

 仲哀天皇が無念の思いで死を迎える中、姫尊は九州から吉備、そして母の故郷である垂水など瀬戸内の王も従えて、仲哀天皇の(別の妻の)息子も撃退して大和に凱旋する。姫尊は神功皇后となり摂政として100歳まで君臨、その子は応神天皇として新たに強力な王朝を築き、建人は名を武内宿禰と改めて、応神の子仁徳天皇にも仕え、蘇我氏など豪族の祖となる。

 

 

【感想】

 前回投稿した作品「ヤマトタケル」で自ら描いた英雄譚を、本作品では「三輪王朝の権威回復には成果が見られなかった」と一刀両断にしている。実在が疑われているヤマトタケルの息子仲哀天皇と、その王妃としてやはり架空の人物と思われている神功皇后。ちなみに神功皇后応神天皇の母親で、応神天皇は「三王朝交代説」の基点の1人とされる人物。神武天皇に始まる二代から九代に至る天皇は「欠史八代」と呼ばれ、実質的な天皇家の祖は十代崇神天皇とされているが、その崇神天皇の皇統から、応神天皇の代に別の皇統に取って代わったという説がある。

 

  

 

 その歴史の転換期に古事記日本書紀記紀)で出現した神功皇后は、戦前の教科書では必ず取り上げられた英雄の1人。当時の高句麗新羅百済を平らげた「三韓征伐」の立役者で、戦いを率いるために石をお腹に抱いて出産を遅らせたというエピソードは、ここでは「大幅に」割愛されている(現代の政治状況ではねぇ)。

 それもよりも気になるのは、仲哀天皇を大和で育った「山人」として捉え、対して神功皇后を中心とする人物を「海人」としていること。三王朝交代説を想定させつつ、「海人」の皇統が従来の「山人」の皇統をなぎ倒して、応神から仁徳、そして履中天皇へと続く、大規模古墳群を作り上げた強大な王朝を確立するストーリーにあつらえた。

 日本全国を回って討伐を続けた「悲運の英雄」ヤマトタケルの息子は、父が征伐した熊襲によって敗退を喫する。異境の地で死に至った天皇に対し、後に記紀を編纂した際、淡海三船諡号(過去の天皇の名をまとめてつけたとされる)で「仲哀」と、意味深な名をつけた。

 親子揃って悲運の生涯を遂げた物語。それは天皇にならなかった聖徳太子と、蘇我入鹿に攻められて自殺に追い込まれた山背大兄王の親子、そして天智天皇と、その弟天武天皇と戦って亡くなった息子大友皇子(現在は弘文天皇と呼ばれる)のような血統の断絶を連想する。記紀の編者は断絶した血統に対して、それぞれ父に英雄を置いて、その子に悲劇的な最後を迎えさせる。まるで「察せよ」と言わんばかりに「哀」悼の意を込めて描いた気がしてならない。

 対して息子(?)の応神天皇は、妻の神功皇后と共に、大分県宇佐八幡宮で源平を含む「皇祖神」の扱いで、八幡神の本尊として祀られている。この扱いの格差!

 記紀が編纂された頃は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、まだ日本が攻められる不安が生々しく残っていた時代。当時の女帝(持統、元明)を模した神功「皇后」による三韓征伐は同時に、万世一系を奉じる皇統の「つがい」としての役割も担わせた。まさに政治的な「忖度」。

 呪術が支配する時代から武力支配になる過渡期の時代神功皇后卑弥呼になぞらえる説もあり、本作品でも神功皇后を「卑弥呼のような呪術」を使う王女を目指す文章もある。黒岩重吾はそんな想像力を試される人物を、武内宿禰も絡ませて縦横無尽に描ききった。

 

    崇神天皇から応神天皇までの系図ウィキペディアより)