小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

10 四神の旗(藤原四家) 馳星周 (2020)

【あらすじ】

 大化の改新で功があった中臣鎌足の子不比等は、天武の治世になる雌伏のときを迎えたが、その後持統天皇の信頼を得て出世を遂げると、一代で朝廷を支配する。

 

  その野望を子々孫々に継がすべく、議政官は一家1人という原則を逆手にとって、4人の息子たち武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂に、それぞれ南家、北家、式家、京家と四家設立して藤原支配を盤石のものにしようと目論む。そして中心に四家の妹となる安宿媛首皇子の妃に嫁がせ、藤原氏の血脈を継ぐ皇子の皇后として野望を完成させようとした。但しその志半はで不比等は没する。

 

 不比等の遺志を継ごうとする長男武智麻呂は「」。父不比等から、人を好悪ではなく敵と味方として見る政治の厳しさを知る。藤原氏の長男としてその苦悩を乗り越えて、冷徹な心を持って父を乗り越え、朝廷を支配しようとする。

 

 次男房前は「」。真っ直ぐな性格で、一度決断と決して揺るがない,首皇子の祖母元明天皇(阿閏皇女)や母元正天皇(氷高皇女)から、不比等の影響下にない皇室を築くため、長屋王の支援を頼まれる。藤原一族よりも臣下の立場を優先して、徐々に兄武智麻呂と意見を異にしていく。

 

 三男宇は「」。遣唐使随行して唐で学問を修めた宇合は、唐の都と政治制度を自らの手で大和に作り上げることを夢見る。また唐で学んだ軍事知識を生かして、蝦夷の反乱を見事鎮圧して、軍人としての器量も見せた。自らの願望を遂げるためには、言葉だけに見える長屋王ではなく、兄武智麻呂に従うのが近道と判断する。

 

 四男麻呂は「」。偉大なる兄たちに後れを取って自分の立ち位置に悩み、酒を飲み箏を奏でながら、妹の安宿媛を大切に思う。そんな人柄が付け入る隙を与えるのか、不比等の後妻にして「女不比等」の異名を持つ橋三千代や、その子葛城王橘諸兄:三千代の先夫の子)の思惑に巻き込まれる。

妹の安宿媛(のちの光明皇后)を、葉室麟が描いた作品。天然痘ハンセン病看護に尽力した伝説があります。

 

 対して妹の安宿媛は「」としての輝きを放つ。不比等の計らいで幼い時から首皇子と一緒に過ごし、聖武天皇と一緒になってからも、子供の頃から持つ大らかで明るい性格は失われない。聖武天皇も妃の中でも一番大切に思い、安宿媛が自分の「皇太子」を産むことを願う。

 

 政界の実力者である左大臣長屋王は、天武天皇の孫で太政大臣高市皇子の子という血統。不比等のために即位を妨げられた思いもあり、藤原四兄弟を分断して勢力を削ごうと画策する。しかし皮肉にも、不比等が定めた律令天皇も含め全てに優先すると考える「原理原則者」でもあり、天皇からは疎まれている。長男武智麻呂はその弱点を突いて、弟たちとも画策して長屋王の追い落としを図ろうとする。

 

【感想】

 「不夜城」でデビューした馳星周が描いた歴史小説。しかも奈良時代を舞台とした物語を選ぶとは驚いた。作者は、最初は藤原不比等が日本の大半を造り上げたと聞いて興味を持って(私もそう思います)「比ぶ者なき」を描き、その続編として、不比等の子である「藤原四兄弟」を描いたという。

*父、藤原不比等馳星周が描いた作品

 

 藤原四兄弟を描いた小説は余りなく、私は四兄弟を「十把一絡げ」に捉えていたが、本作品で描かれる1人1人の個性、そして4人4様の行動や立ち振る舞いは感銘を受けた。「仲が良くても自分の味方にならないようならばその関係は絶ち、仲が悪くても自分の為になるならばその人間と付き合う」。「政治の天才」不比等が武智麻呂に語った言葉が、そのまま宮廷遊泳術(そして現代の政治?)に通用する。また後の光明皇后となる安宿媛を生んだ不比等の後妻、三千代。先の夫との間には後の宰相橘諸兄を生んでいて、不比等亡きあとは「不比等」と呼ばれ四兄弟と安宿媛を差配する姿は圧巻。

 本作品では安宿媛が、明るく屈託のない女性として描かれていることが救われる。もっと欲深な、嫉妬を受けるような人格で描くこともできたはずだが、皆から愛される存在としての描き方を貫いた。但し子がなくなると母親として、呪詛の疑いが持たれた長屋王を決して許さず、長屋王に与する兄房前に対して絶縁するなど激しい面も出して、皇后という「政治家」になる過程を表している。

 藤原兄弟に陥れられて死罪を受けた、日本史上でも有数な「祟り神」とされる長屋王。そんな長屋王も、本作品ではそれだけの「行状」を積み重ねている様子を描いている。それは武智麻呂や宇合が見せる政治家としての巧緻な罠であり、聖武天皇に対する心理ゲームでもある。  無念の思いで亡くなった長屋王は、死後藤原四兄弟が疫病(天然痘)によって次々と命を絶たれたことにより、祟りが成就したと周囲から信じられる。

  長屋王ウィキペディアより)

 

 その後の藤原四家を簡単に記す。四男麻呂の京家は当初から発展しなかった。長男武智麻呂の南家は、その子仲麻呂恵美押勝)が光明皇后の寵愛を受けて天皇を凌駕する権力を握るが、光明皇后の娘である称徳天皇吉備真備よって鎮圧されてしまう。三男宇合の式家はその子広嗣が乱を起こす。弟の百川が桓武天皇擁立で功をあげるも、その後に起きた薬子の変にも関与して、失策続きで凋落。そして北家は興隆は遅かったが、その後「不比等並み」の人材を次々と輩出し、摂関政治を牽引していく。

 タイトルの「四神旗」。青龍・白虎・朱雀・玄武をそれぞれ描いた、大極殿または紫宸殿(ししんでん)の庭に立てられた四神の旗。その旗のように四兄弟で首皇子聖武天皇)と安宿媛を守る期待をかけた不比等

 聖武安宿媛の間に生まれた男子は早世し、残る娘の「悲劇」は次の投稿で。

 

  

 藤原四家を中心とした系図(山川詳説日本史より)