小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

2 白鳥の王子 ヤマトタケル 黒岩 重吾(1991-2000)

【あらすじ】

 4世紀末の倭国。12代景行天皇オシロワケ王)の治世で、まだ三輪王朝(ヤマト政権)の統治が定まっていない時代。双子の兄大碓の弟として子碓と呼ばれた倭 男具那(ヤマト オグナ)は、勇猛にして慈愛を持った性格から家臣たちの信頼を受けている。反面父や兄、親族からは自分の立場を脅かす者と思われて疎まれ、かつ王権を奪おうとする豪族たちから命を狙われていた。

 

 卑弥呼邪馬台国として北九州を支配していた頃、熊襲(九州南部)を抑えていたが、邪馬台国が大和に移ってからは(サラリと言及している)、熊襲は川上建(タケル)を首領として九州北部にまで勢力を伸ばしていた。勢いに脅かされている周囲の国から応援を求められていたオシロワケ王は、息子の男具那に熊襲征伐を命じる。男具那は妻の弟橘媛オトタチバナヒメ)の兄など、男具那に信奉する勇士たちを引き連れて熊襲に赴き、その小柄な体格から、女装して首領、川上建に近づいて油断した隙に倒す。川上建は死の間際に「自分の名前を貰ってくれ」と男具那に頼んだことから、以降 倭 建日本武尊ヤマト タケル)と名乗るようになる。

 

 見事熊襲を打ち破り大和に凱旋した 倭 建 だが、父オシロワケ王や豪族たちは面白くない。オシロワケ王は 倭 建 を嫌い、東征を命じてを遠ざける。いつ終るとも知れない戦いに空しさを感じていた 倭 建 は、叔母の倭姫王に愚痴をこぼす。熊襲に赴く時は女性の衣服を与えた倭姫王だが、今回は伊勢神宮にあった神剣、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を渡して東征の成功を祈る。

 

 

 *ヤマトタケル(建部大社HPより)

 

  倭 建 の心の隙間を埋めるように、東征の途中尾張音彦の娘である宮簀媛(ミヤズヒメ)という妖しい魅力を持った女と出会い、虜になってしまう。 倭 建 は自分を見失ってしまうが、巫女の能力がある弟橘媛が危機を察知して尾張に赴き、霊の能力で 倭 建 を目覚めさせる。そのまま東征に従い、駿河では野火の難に遭うが、倭媛王から授かった天叢雲剣を使って草原を払い難を逃れ、草薙剣の名を与える。更に房総半島に向かうが途中嵐に遭遇し、弟橘媛が海神の犠牲となって身を投げることで 倭 建 らは救われる。

 

 「吾が妻」と 倭 建 が呼んだことから「あずま」と呼ばれるようになった東国。弟橘姫を失ったショックは大きく。 倭 建 は軍隊を解散してしまい、元々従っていた少数を連れて大和に戻る。途中尾張ではまたしても宮簀媛が待ち構え、 を大和に返さないために草薙剣を隠してしまう。それでもまた弟橘姫の霊力によって目を覚まして大和に帰るも、しかし大和では 倭 建 が軍隊を解散したことから反逆罪として軍勢を敷いて待ち構えていた。

 

【感想】

 日本古代における最大の英雄日本武尊日本書紀に書かれる表記。古事記では「倭 建」とされ、本作品ではこちらを表記)。反抗する豪族達を討伐して大和政権の威を全国に広めながらも、天皇にはならなかった悲運の英雄として描かれているが、具体的な記載内容はごく僅か。それを黒岩重吾大和の章西戦の章東征の章、そして終焉の章と、文庫本にして6冊にも連なる長大な物語として描いた。

 軍事に秀でた優秀な武将のヤマトタケルだが、熊襲の首領、川上建を倒す時は女装で近づいたように、体格や腕力で優れた人物ではなく、知性的な印象を受ける。そして黒岩重吾は更に、やや内向的で懐疑的な性格も与えた。まだ若い「西戦の章」では、率いた家臣との会話を楽しみながら戦っていくが、休みなく東征を命じられたヤマトタケルは、尾張で宮簀媛に取り込まれていく様子を、かなり長々と描いている。初読の時は訝しく思ったが、その後を読むとこの箇所が生きてくる。正妻の弟橘媛に対して、妖女として描いた宮簀媛。想像力を膨らまして描く黒岩重吾の技量は冴え渡る。私が勝手に名付けている黒岩重吾の「古代浪漫シリーズ」。その劈頭を飾るにふさわしい物語となっている。

*「妖女の化身」鹿の絵が非常に印象的な、初回配本の表紙(東征伝)

 

 これだけ大和王権の威を広げるために力を尽くしたヤマトタケル。北は岩手県から、南は熊本、宮﨑までの広大な範囲に伝承の碑が残されている(まるで弘法大師空海の碑を思わせる)。尾張草薙剣を奪われて(以降、熱田神宮で祀られることになる)、山越えで故郷の大和に向かうも、その途中で今まではヤマトタケルを守護していた山の神と遭い、自分勝手なふるまいに対しての「鉄槌」が下る。

 ヤマトタケルの物語は「各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績があることから、4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もあるウィキペディアより)」。そして黒岩重吾もあとがきで、全国に征伐に赴いた何人かの王子の1人として語り継がれたのではないかと語っている。明らかに大王になるべき戦果と識見を有した王子が、故郷に戻ることを夢見ながらもその寸前で、30歳の短命で命を落とす「悲劇の英雄」だと古事記日本書紀で記した。それはギリシア悲劇と同じく天皇家に対する同情と畏怖を与えて、その後の皇室を奉る役割を担った

 古事記日本書紀では、ヤマトタケルの第2子(弟橘姫の子ではない)を天皇として(仲哀天皇)父の恩義に報いているが、年代的に矛盾があり、ヤマトタケルの存在と共に疑問視されているところもある。そのことは「古代浪漫シリーズ」に相応しく、黒岩重吾の想像力を働かせる余地を与えただけでなく、江戸時代から多くの学者や作家の想像力を刺激し続けている。

 

*私の「ヤマトタケル」初見は、1976年少年ジャンプ連載のこのマンガ。子供心をわし掴みされました。