小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

9 天風の彩王 藤原不比等 黒岩 重吾 (1997)

【あらすじ】

 大化の改新の立役者であり、その後天智天皇を補佐して出世した中臣鎌足の子、不比等。父鎌足は死に際して天智天皇からは大織冠の地位と藤原の姓を下されて、不比等も将来は約束されていた。

 

  だが鎌足の死後2年経ち、天智天皇崩御してから不比等の運命は暗転する。翌年大海人皇子壬申の乱を起こして天智天皇の子、大友皇子を殺害し、天智系の豪族は朝廷から一掃されてしまう。乱の時不比等はまだ14歳で刑罰を受けることはなかったが、逃れるように山科に隠遁することになる。19歳でようやく官人候補生の大舎人となるが、無位無官のままだった。

 

  天武天皇の晩年、不比等天武天皇と讃良皇后の間に生まれた草壁皇子の相談相手として宮殿に出入りが許され、そこで不比等は自分の出生の秘密を知る。天智天皇が父・鎌足に与えた母、車持君与志古娘は既に妊娠していて、不比等天智天皇の子である噂。そうなると天武天皇の妻讃良皇后は異母姉となる。

 

 讃良皇后も、草壁皇子に忠誠を尽くす「異母弟」不比等を信頼し、天武天皇崩御して皇后が実権を握ると、不比等もようやく貴族としての官職を得る。ところが草壁皇子が即位する段に、皇子は薨去する。力を落とす讃良皇后だが、不比等草壁皇子の子、7歳の軽皇子が即位する年齢になるまで女帝として見守るようにと励ます。讃良皇后はそれを受け入れ、持統天皇として即位する。

 

 自分の血統を皇統としたい持統天皇の「願望」に、自ら仕えた草壁皇子への思いも合わせ、不比等軽皇子を即位させようとする持統天皇に尽くす。幼少の頃に経験した不遇時代と勉強により、事務処理能力に加え、政界遊泳術も長けた不比等は、その後出世街道をぱく進する。

 

   

 *藤原不比等ウィキペディアより)~不比等の本はいくつかありますが、3連続ながら「黒岩史観」最後の登場となりました。

 

 軽皇子の養育係だった三千代を、夫と離婚させてまで自分の妻にする強引な手段で皇室との繋がりを持ち、そして自分の娘を軽皇子文武天皇)の妃に差し出し、更にその子の聖武天皇にもう一人の娘、光明子聖武天皇の妃に嫁がせることに成功する。

 

 軽皇子文武天皇として即位し、持統天皇は安心して亡くなる。しかし文武天皇も又子供が幼少のままで早世してしまったため、不比等は今度は文武の母を元明天皇として即位させ、幼い首皇子が即位する年齢になるまで支える。不安な女帝やその幼帝を支え続けることで、不比等は皇室にはなくてはならない存在となっていた。40歳で官界の第一人者となり、50歳で右大臣に任ぜられる。そして出世のきっかけとなった草聖皇子の孫にあたる聖武天皇が皇太子となった時に、自身の娘、光明子を妃に嫁がせ、聖武天皇が即位する前に62歳で没する。

 

【感想】

 藤原1000年王朝を築いた「公家の源流」。そして明治維新まで続く、律令体制を整えた人物でもある。教科書を見れば大化の改新で功績があった中臣鎌足の息子であり、権勢が子に続くのは不思議ではない。しかし当時の不比等から見ると、かすかな運を自身の実カと行動力で最大限に生かす、単なる二代目とは全く異なる印象を受ける。

 父鎌足中大兄皇子と共に決起した大化の改新は、中大兄皇子を独裁者とさせてしまう。かつての味方を排除し、唐や朝鮮半島の情勢に対して冷静な判断が下せずに、白村江の戦いで大敗したことにも、鎌足は諌言を行わず、政界から痕跡を消して身を守った。

  

 *実父と養父? 右が天智天皇、左が中臣鎌足ウィキペディアより)

 

 中臣鎌足の判断で不思議な所は、当時ただ1人の男子であった自分の長男・定恵を11歳の若さで出家させて遣唐使として唐に渡らせたこと。不比等が生まれるのはその6年後であり、当時唯一の男子を出家させ、かつ命がけの遣唐使に派遣するのは、異例中の異例。しかも12年後定恵は唐から帰朝するも、唐への反感が満ちあふれていた当時の倭国の情勢が原因したのか、謎の死を遂げてしまう。

 兄もそして父も没し、治世は天智から天武に代わり、若くして不比等は雌伏の時を迎える。恐らくその時に中臣鎌足も愛読した「孫子」を読んで、戦略と戦術について、倭国では最先端の理論をマスターしたことだろう。上には忠誠を誓い、仕える人物が疑問に思う前に先読みしてその疑問を排除し、又は答えを用意しておく。現実に問題が起きたら、優れた事務処理能力で速やかに解決する。不比等の前には蘇我稲目が、そして時は下って平清盛の父平忠盛が、斎藤道三が(2人とも、身籠った妻を主君から下された噂がある)、そして木下藤吉郎が実践した「出世の要諦」。

 天武天皇が編纂を命じた古事記日本書紀を、持統天皇が血のつながる孫を天皇にする「妄執」の裏付けとさせたのは「付度」の塊。公務員法を改正して定年延長するよりも悪質で大規模な「改ざん」を行った疑惑がある

  持統天皇ウィキペディアより)

 

 律令制度を整える反面、自分の娘を天皇とその子の2人に嫁がせて、天皇家を凌駕しない外戚の立場で天皇を取り込もうとするのは、その後の摂関政治院政支配にも受け継がれた。その手法は朝廷支配にのみならず、日本人の性格や特質に及び、現在にまで至る大きな影響を与えた