小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

7 落日の王子-蘇我入鹿 黒岩 重吾 (1982)

【あらすじ】

 稲目から馬子へと継がれた蘇我本宗家は、蝦夷の代になり支配力が弱まったと息子、蘇我入鹿は感じていた。30歳を過ぎて周囲を圧する雰囲気を醸し出し、遣唐使から帰国した僧旻に通って中国の皇帝制度を学ぶ。その野望は、蘇我本宗家を天皇家をも凌ぐ地位とすること。

 

 推古天皇崩御したとき、後継は皇統と蘇我家の血脈を継承する聖徳太子の息子、山背大兄皇子が有力と思われた。ところが皇子は聖徳太子が説いた平等主義を掲げ、民を牛馬のごとく使役する天皇や豪族からは、危険思想の持ち主と見なされていた。そのため皇位蘇我家の血統ではないが、支配しやすい田村皇子(舒明天皇)に、そして舒明天皇の死後は、同じ理由でその皇后である宝皇女(皇極天皇)が継ぐことになり、山背大兄皇子は完全に王位から遠ざけられる。

 

 祖父馬子を凌ぐ権力を手にしようとする入鹿は、舒明天皇に先立たれた皇極天皇と情を通じて、自分の子を宿すことで天皇家を乗っ取ろうとする。また本来天皇から与えられる大臣の姓を、父蝦夷から直接譲与を受けることで、蘇我本宗家の力を周囲に見せつける。そして対立する勢力をことごとくなぎ倒す決意を固める。

 

 まず邪魔なのは山背大兄皇子(上宮王家)。蝦夷と入鹿の墳墓(梅山古墳)造営にあたり、上宮王家が支配する武蔵の民を勝手に使役し、夜な夜な奇襲することで上宮王家に戦の準備をさせて征伐する口実をつくる。そしてついに斑鳩宮を攻め込み、上宮王家を滅亡させる。

 

  蘇我入鹿(歴史人より)

 

 入鹿は対朝鮮有事から都を守るという名目で、皇居(板葺宮)よりも高い甘橿丘に要塞という名目で自らの屋形を建立する。天皇家を眼下に従える邸宅の構えに、周囲の者も皆危機感を抱えるようになる。南淵請安の塾で随一の秀才と謳われた中臣鎌足は、蘇我本宗家に批判的だった蘇我倉山田石川麻呂を引き入れ、中大兄皇子を中心に据えて、蘇我氏に不満を持つ豪族たちを糾合させる。中大兄皇子も生母・皇極天皇を穢され、政治権力を我が物にしようとする入鹿に対して、敵対心を育んでいた。

 

 中大兄皇子中臣鎌足は、まず皇極天皇と入鹿の子である漢皇子を暗殺する。そして中臣鎌足新羅朝貢の儀式を開催し、新羅使の中に刺客を送り込み、この場に入鹿を招いて殺害(乙巳の変)することに成功した。父蝦夷もまた、甘橿丘の屋形に火を放ち自決して、栄華を誇った蘇我本宗家は滅亡した。

 

 

【感想】

 黒岩重吾は「磐舟の光芒 物部守屋蘇我馬子」や聖徳太子 日と影の王子」で蘇我馬子を密に描いており、先に紹介した「北風に起つ」の稲目も含め、本作品で蘇我四代(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)を見事に描ききった。その最後の蘇我本宗家の総領、入鹿。外観的な描き方から自分の欲望を隠さずに、どのような手段を使っても必ず手に入れる人物が想像される。しかし父蝦夷よりも知恵も働く、ただの「荒武者」とは違った性格。雄略天皇(ワカタケル)と似た印象を受けるが、生存年は約200年隔たる。この200年が2人の運命を分けた印象も受ける。

 聖徳太子が広げた仏教と遣隋使。これらにより学問が生まれ、そして制度が生れようとしていた。仏教界では後々まで聖人と称えられる聖徳太子の教えが、学問として若きヤマト官人に広がり、そのため力の強いものが支配する時代から変わり、秩序が確立しようとしていた。

 そして天皇家も「王朝交代」するものでなく、崇拝すべき存在となってきている。入鹿は自ら大臣となって、そこから「皇帝」の座を目指そうとしたが、山背大兄皇子は滅ぼしても、天皇家は中国王朝のように滅ぼす断は下せなかった。ここに蘇我氏の限界がある。

  

*有名な聖徳太子の絵ですが、右側の少年が山背大兄王と言われています(ウィキペディアより)

 

 歴史上は悲劇的な最後を迎える聖徳太子の子、山背大兄皇子だが、黒岩重吾辛辣に描いている。太子の理想を受け継ぐように見えるも、政治には関与せずに、美しい大勢の女性に囲まれて好き勝手に生きている存在。そして父ほどには仏教に対する信仰心も、学問を学ぶ姿勢もない「享楽主義者」でありながら大王の座を求めるのは、さすがに周囲もついてこないと断じている。

 当時高句麗は唐からの脅威が続き、高句麗の将校、泉蓋蘇文がクーデーターを起こす。入鹿はこの情報を知って自らも「皇帝」の地位に就くことを望むが、高句麗では祖国を守る危機感がクーデーターを成功させた。しかし倭国では海が防壁となり、唐への危機感が共有化されなかった。また自らの子を皇極天皇に産ませ、陵墓や屋形を建造するなど私利私欲とも見られる振る舞いも多く、周囲の心は離れていった。

 そして中臣鎌足。仏教伝来と急速な普及によって、神事を司る中臣家は追い込まれていた。そこで神童と言われた鎌足を中臣家の養子に迎え、仏教に対抗しようとするが、その方式は愛読していた孫子の兵法。入鹿と対照的に深く密かに策謀を進行させて、息を凝らして機会を窺い、その機会を自らも作りあげて、「一撃」でモノにした。それは藤原氏がその後朝廷を支配する方法に、引き継がれることになる。

 

 800年ほど時を下って室町初期。同じく天皇家を簒奪しようとした三代将軍足利義満が登場する。力で朝廷を支配し、血統も自らの血筋を天皇家に入れようとして、また御所を見下ろす相国寺など巨大な建物を作りあげる。そして蘇我入鹿と同じように、野望を達成する寸前で命が絶たれて、天皇家は存続していく。

 歴史は繰り返すのか。

 

   

継体天皇及び蘇我稲目から続く系図。まるで後の藤原氏のように、皇室に蘇我氏がまとわりついています。