【あらすじ】
1891年、公爵近衛篤麿の長男として生まれた近衛文麿は、学習院中等科から一高、東京帝大に進むも、マルクス経済学の河上肇や差別問題の学者が揃っている京都帝大に転学する。学習院で同窓だった木戸幸一や原田熊雄と京都でも同窓となり親交を深めた。25歳で世襲して公爵・貴族院議員となる。
1918年論文「英米本位の平和主義を排す」を発表し、翌年のパリ講和会議では人種的差別撤廃提案が否決され、欧米に対して否定的な見方が強まる。政治的活動を始めると、家柄に加えて高学歴や風貌、英米に追従しない主張で国民の人気も獲得していく。2・26事件の後次期総理に推薦されるも固辞すると、広田弘毅内閣、そして陸軍の林内閣とも短命で崩壊し、1937年に45歳の若さで総理の印綬を帯びる。翌月には日中戦争が勃発し、近衛は不拡大方針を宣言する一方、大規模な軍隊派兵を決定する。
国内では国民精神総動員中央連盟を設立、また企画院を誕生させ、戦争に向けた計画経済体制の確立に向けて動き出した。国外では日独伊防共協定を締結されるも、日中戦争が収束できないことを理由に1939年内閣を総辞職するが、その後近衛は大政翼賛会につながる独裁新党構想に動き「新体制声明」を発表している。これに応じて政党政治は終焉を迎えた。
第2次世界大戦が勃発するとドイツの勢いに推され、国内でも「バスに乗り遅れるな」という機運が高まっていた。米内光政は陸軍の要求する日独伊三国同盟の締結を、断固として拒否したため総辞職となり、満を持して近衛が再登板する。近衛は日独伊三国軍事同盟を締結する一方、日ソ中立条約を締結する。しかし三国同盟を推進した外務大臣松岡洋右は、ドイツが宣戦布告したソビエトへの攻撃を陸軍と画策して内閣と対立したため、松岡を外した第三次内閣を組織する。
*松岡洋右。苦学して外交官となり活躍するも、近衛の思惑を離れて独走。姪の佐藤寛子は後の総理の佐藤栄作に嫁ぎ、義理の伯父、甥の関係となります(ウィキペディア)
アメリカの石油輸出禁止等の制裁強化により、窮地に立った日本は英米との交渉が決裂したら開戦する方針が定められた。しかしアメリカは譲歩せず、開戦を迫られた近衞は政権を投げ出し、後継の東条英機内閣にその決断を委ねる。開戦後は政権から一定の距離を置いていたが、敗色が漂う頃から終戦工作に関わる。1945年、天皇に奏上した「近衛上奏文」は和平と陸軍の陰謀を主張したため、下書きをした吉田茂は陸軍憲兵隊に逮捕拘束された。結局近衛の終戦工作は実らないまま、終戦を迎える。
終戦後近衛はマッカーサー始めGHQから意見を求められて憲法改正に携わることになったが、次第に戦争責任が太平洋戦争から日中戦争、三国同盟、新体制など遡り、GHQから厳しい尋問に晒された。GHQから逮捕命令が出たことを知った近衛は、青酸カリで服毒自殺する。64歳。
【感想】
再び1980年代の中曽根時代の話。「中曽根裁定」によって後継に竹下登が決まったあと、安倍晋太郎と宮澤喜一も含めた4人が集って「慰労会」をしたとき、宮澤が太平洋戦争の責任について皆に議論をふっかけて、一番責任が重かったのは近衛文麿だと指摘した。当時「近衛時代」という本が中公新書で発刊され、そこでは軍部に抗しきれない「悲劇の宰相」として描かれていた。対して「ダイヤモンドの頭脳」と言われた宮澤喜一のコンピュータは、複雑で緻密な計算式で、答をはじき出す。
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本作品は「近衛時代」と同じ年に発刊されたが、近衛が残した手記などを拾い上げて描いているためか、近衛寄りの記述になっている。その後1990年に公開された「昭和天皇独白録」では「近衛は都合の良いように書いているね」と漏らしたと言う。天皇家への不敬を訴えながら、実際には天皇の意向に反して、陸軍に同調して戦争への道に進ませた近衛は、およそ1,000年前に天皇の権威を利用して菅原道真たちを排斥していった藤原良房や藤原道長ら「先祖」たちと重なる。
近衛が実際に政権を握ると、それまでの景気のいいハナシとは裏腹に、財政、経済、そして外交と軍部に利用されてしまい、結局、日本の国力からかけ離れた「全方位的」な戦争へと向かう道筋をつけてしまった。そして戦後は戦争責任を全て軍部に押しつける意見を述べ、天皇を始め多方面から無責任としての批判を浴びている。
しかし京都帝国時代は河上肇にも学び、日本で一番高貴と思われる人物が差別問題にも正面から見据えた。総理になった時は、治安維持で逮捕された極左の共産党員と、2・26事件で逮捕された極右の青年将校らを大赦しようとしたほどの「振り幅」の大きな思想を持った人物。その政治的イデオロギーは近代日本政治の潮流を離れ、本居宣長や平田篤胤の「やまとごころ」に通じていたのではないか。
本作品では終戦後天皇を退位させて「大化の改新」を再現するとしているが、これは首をかしげる。ただ最後に、近衛の義母(実母衍子は出産後すぐ亡くなり、その妹と父が再婚している)は加賀前田家の令嬢だったが、終戦後疎開先で、配給食糧で生活して闇物資に手を出さなかったため、栄養失調で亡くなることになり、「百万石のご令嬢の末路か・・・・」と語られているのが寂しい。
*近衛文麿の娘を母に持つ孫の細川護熙。祖父と同じく新たな政党を立ち上げて新風を巻き起こしましたが、祖父と同じく途中で政権を投げ出しました(時事通信)。
政党政治家や稀代の財政家が次々と兇弾に倒れ、良識派の外交官も、そして岩倉具視、西園寺公望から受け継いだ公家出身の「切り札」をもってしても、軍部の暴走を止めることはできなかった。
だが1人、太平洋戦争を止める可能性を持った人物が、それも陸軍内部に存在した。しかしその人物はあろうことか、満州事変を起こした首謀者であり「劇薬」であった。その明晰な頭脳は太平洋戦争に至るのは時機尚早と警告したが、既に陸軍内で孤立し、その声は届かなかった。
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