小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

5 岩倉具視 言葉の皮を剥きながら 永井 路子(2008)

 

 公家というには余りにもふてぶてしい面構え、刺すような眼光。一癖も二癖もありげだが、いかにも貧相な小男で人柄がせせこましい・・・・ 品川弥二郎は「こんな男と組んでいいのか」と思った。

 しかし話し始めると饒舌で、無駄な話は一切しない。理路整然と国家改革案を語り出し、計画実行のための具体案の緻密さと深慮遠望には感服した。

 

   

岩倉具視。新札に変わったタイミングですが、肖像画どころか、今では500円札を知る人も少なくなったことでしょう

 

 岩倉具視は厳然たる階級社会の朝廷で、家格は驚くほど低く、また幕末の潮目に乗り遅れて、長い間謹慎を受けていた。そんな男が朝廷の代表となり、そして明治新政府の代表にまで駆け上がった。そこには明治を語る上で欠かせない「言葉」の真の意味を探らなければならない。

 倒幕のエネルギーとなった「尊王攘夷」。岩倉具視もこの言葉を最大限に利用したが、実際には明治維新に至るまでに実態を失っている。倒幕派の両雄、薩摩も長州も外国の力を見せつけられて、すっぱりと攘夷を諦めている。しかし明治維新で役割を終えたはずの「尊王攘夷」は、太平洋戦争前夜に息を吹き返して、米英への敵対意識を助長させた。

 「条約勅許」。幕府の威信が揺らぎ、朝廷の存在がクローズアップされた問題。日本の歴史では、平安時代摂関政治鎌倉幕府の将軍と執権、そして徳川家康による将軍と朝廷の関係など、権力と権威を分離してきた歴史がある。幕末の混乱と「奔馬水戸斉昭を抑えるために、老中堀田正睦は朝廷勅許という手段を使ったが、その窓口に関白九条尚忠を選んでしまう。ところが当時の権力者は、太閤と呼ばれた前関白の鷹司政通。鷹司の頭の中は、は開国か鎖国かよりも、自分の暮し行きが良くなることが一番。開国は元々反対ではなかったが、幕府が九条と誼と通じたとして、その反対のために「九条案」に反対する。岩倉具視を含めた88人が宮中に押しかけて猛烈な反対運動を起こし、孝明天皇は勅許は認めない決定を下した。

 「公武合体」。条約勅許問題の後混乱した幕政の中、もう一頭の「奔馬井伊直弼一橋慶喜の継嗣問題を潰した後、14代将軍家茂と皇女和宮との結婚を目論んでいた。しかし和宮は既に有栖川宮との結婚が内定済。また孝明天皇は、宮を人質に取るのではないかと思い、不満だった。しかし岩倉具視は「和宮の御降嫁は、力の衰えた幕府が、主上のお力にすがって覇権の維持に努めようと必死」と述べて、孝明天皇の賛意を引き出す。岩倉具視にとって公武合体とは、実は権威だけの朝廷の実権を徐々に幕府から奪おうとする手段であった。

 

   *皇女和宮徳川美術館

 

 「和宮降嫁」。岩倉の進言により行なわれた公武合体。仮に将軍家茂と和宮に男子が生れれば、次代将軍となる。奇しくも長州藩長井雅楽が、積極的な開国により富国強兵を目論んだ「航海遠略策」を引っさげて上洛する。日本はかつて、外国と積極的に交流していたことを知った孝明天皇は、開国に対してのアレルギーがなくなり、「航海遠略策」は公武の融和を図る救国の策として、幕府にも取り上げられた。

 しかし時代は岩倉の思惑を超えて過激化していく。勤皇の志士たちは公卿たちを取り込み、孝明帝の思いさえも超えて動き出す。公武合体を唱える者は幕府派の一味として扱われ、まず長井雅楽が同じ長州によって死に追いやられる。そして皇女を将軍に降嫁させた「首魁」と見られた岩倉も命を狙われる始末で、京の郊外の岩倉村に隠遁することになる。

 「徳川慶喜」。東照権現家康の再来という評価もあれば、不決断柔弱とこきおろす人もいる。頭脳が明晰で先が見通す力に優れるため、常人の考えの及ばぬ行動を取るが、時に政治では「鈍感力」が必要な時がある。尾張紀州より一段落ちる水戸に生れた慶喜が、御三卿の一橋家を継ぐことになり政界のスターダムにのし上がったが、そこは外様の雄藩諸侯が、天皇を利用して己の欲を満たそうと争っている姿だった慶喜の将軍就任と同じ月に亡くなった孝明天皇の死による恩赦で、ようやく赦免された岩倉だが、そこで征夷大将軍である慶喜が、幼少の天皇の摂政にならんとする企てを察知する。

 「王政復古」。岩倉を初めとする倒幕派慶喜の奇策を封じ、「倒幕の密勅」を手に入れた同じ日、慶喜はその動きを察知して「大政奉還」を決断した。これによって朝廷に大権が戻されて天皇御親政の御世が始まる。しかしこのどさくさに紛れて、岩倉の家格では生涯なれなかった、摂政・関白という平安から1000年続いた制度も吹き飛ばしてしまう。

 新政権作りとは、摂関政治をも打破することが目的の1つではないのか。小御所会議は徳川慶喜が欠席の中で進められたと言われ、「酔って候」の山内容堂と岩倉とのかけ合いによって、幕府の廃止が決まったことに注目を浴びているが、会議後に残った面々で、摂政関白の制度を廃止する朝廷改革も、勝手に上奏されてしまった

 

  孝明天皇ウィキペディア

 

 永井路子が83歳で上梓した作品。岩倉具視を題材にした長編だが、小説というよりもエッセイに近い評論の形式。しかし独特の感性を持つ永井路子が、自らの小説技法や歴史への切り込み方を説明して、とても興味深い内容になっている。特に平安王朝などに対して鋭い見方をしている永井路子が描く、幕末における朝廷の姿は、とても新鮮に映る。

 「言葉の皮を剥きながら」。美名に隠れるのは、権力に群がる人々の欲と争い。それは平安の御世から太平洋戦争、そして現在に至るまで変らない。「言葉」は時に本質から離れ、人々に利用される。そんな寓意を知らしめるために、作者は岩倉具視を主人公に選んだ。

 

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