【あらすじ】
日露戦争が開戦されると、高橋是清は戦費調達のため、海外で外債の公募を命じられる。国力はロシアの20分の1程度で、困難というより無謀な仕事に固辞するが、元老井上馨から呼び出されると、首相の桂、そして大蔵大臣と日銀総裁も顔をそろえて懇願する。結局成算なきまま、是清は引き受けることに。
早速渡米するが手応えがなく、当時金融の中心であったロンドンに向かう。そこでも日本へ「共感はあるがポケットは別」で、公募は全く進まない。しかし地道に活動を続け、時には大言壮語も交えながらも外国人の心に入り込むと、ロスチャイルド家など金融界の要人と結びつき、さらにジェイコブ・シフが是清を全面的に信用すると日本公債は人気が出て、7度にも渡る公債募集は奇跡的に成功した。
1913年、松方正義から評判を聞いて注目していた山本権兵衛から声がかかり、初めて大蔵大臣に就任する。内閣はシーメンス事件で倒れたが、その後原敬が組閣した際に、2度目の蔵相となる。軍部は元老の後ろ盾もあり巨額な軍事予算を要求するが、是清は陸相田中義一、海相加藤友三郎と三者で会談し、閣僚として国の予算を考えて要求するように諭す。原が暗殺されると、既に開始中のワシントン軍縮会議をまとめるため、内閣総理大臣を引き継ぐ。軍縮会議は成功したが、自嘲するように政党活動には不慣れなために、混乱する政友会をまとめられず内閣は半年で瓦解している。
政党内閣の終焉に責任を感じた是清は、その後護憲三派の一角を率いて、本格的政党内閣の加藤高明内閣の設立に尽力を尽す。その後政友会総裁を、陸軍ながら見所があった田中義一に譲り、政界を引退した。しかし1927年に昭和金融恐慌が発生すると、田中義一から懇願されて3度目の蔵相に就任。取り付け騒ぎに迅速に対応するため、高額紙幣を片面だけ印刷する「奇手」を繰り出す。是清が蔵相に就任することで、世間は安心感を受け、混乱が静まるほどの存在になっていた。是清は日本銀行と協議して、国債を日銀が買い上げるアイディアを思いつく。但し「劇薬」で何度も使ってはならないとして、金融恐慌を収束させると、先例にならぬよう、直ちに蔵相を辞職している。
1931年犬養毅が組閣した際には4度目の蔵相を懇願され、浜口・井上の金解禁政策から舵を切って、世界恐慌により混乱する日本経済を立て直す。5・15事件で犬養が暗殺されると臨時総理を兼任し、引き続き齋藤実内閣で蔵相に5度目の就任。1934年には、学校で教え子だった岡田啓介に求められて6度目の蔵相に就任する。
軍事予算の拡大が限界を超えたと判断した高橋は、軍部に対して「ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1,000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と通告し、延々17時間に及ぶ徹夜の最終折衝を81歳の是清は耐え抜き、軍部の抵抗を最後まで排した。
しかしこうした姿勢は軍部の恨みを買い、2・26事件の標的となった。自宅2階で反乱軍から胸を6発銃撃され、83歳の波乱に満ちた生涯を終える。妻の品はその惨状を見て口を開く。
「残酷と申すより、卑怯にございます」
【感想】
1986年、中曽根内閣が深夜に及ぶ予算折衝で防衛費1%突破を決めた時、日本経済新聞は、高齢の高橋是清蔵相が徹夜の審議で、軍部の復活予算要求を退けた例を上げて、中曽根総理の「弱腰」を批判した。今でも覚えている記事だが、およそ40年後の現在、防衛費1%のシーリングは当時ほどの意味をなさず、「入るを量りて出ずるを為す」考えは、だいぶ薄れてしまった。
*緊縮財政路線で、一時高橋是清と対立した井上準之助の物語です。
ファシズムが蔓延する当時、軍部の意向を拒絶することは「文字通り」命がけだったが、80歳を超える高齢の蔵相は耐え抜いた。日露戦争で公債を消化する、他の人ではできない困難を成し遂げた代わりに、日本財政がその後「借金漬け」となったことへの禍根。その後何度も大蔵大臣となるが、軍事予算に「シーリング」を嵌めて歳出を抑制することができなかった後悔。金融危機に際して時の危機を回避するために登場し、信頼する後輩で、「金解禁」を成し遂げた井上準之助の政策を真っ向から否定する積極財政を主導した者の責任。これらの思いを胸に、ここが最後の踏ん張り処と、自分にムチを入れて堪えた。しかし「こらえどころ」は、もう少し前だったのかもしれない。
井上準之助に対して、作者の幸田真音は高橋是清と対比させて厳しい目を向ける。来日したモルガン商会のラモント支配人の満鉄社債の引き受けに関与して、あわよくばコミッションを受け取れるかと喜んでいた、と辛辣に描いている。対して是清は日露戦争の外債消化でも、自身のコミッションは「一銭たりとも」受け取らす国に返上して、後で国から受け取った賞典も、全て政党活動に使ってしまった。
その幸田真音は、高橋是清に惹かれた理由として、21世紀に財務官僚が日本国債の買い手を外国に求めようとした時、「日本国債を外国で売ろうと頑張るなんて、明治時代の高橋是清以来」と語ったこと、とあとがきで記している。一度は小泉純一郎内閣で財政を緊縮へと舵を切ったが、その後はご覧の通り。是清が「劇薬」と評した日銀の国債購入は「当たり前」となり、東日本大震災で、そしてコロナで「大盤振る舞い」をして財政赤字を拡大している現代。それは関東大震災で、そして金融恐慌で財政赤字の整理を先延ばしにしてきた当時の日本と見事にシンクロしている。しかし「命まで奪う」軍部は、現在はいない。では、軍部に代わるものは何か。
*財政赤字に対する歯止めが効かないことを憂いたコラムです。
「おのれを空しゅうして国家のために尽すという精神」で、引退後も大蔵大臣に引きずり出され、そして命を奪われた高橋是清は、今の政治家や官僚を見たら、どう思うだろうか。
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