小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

9-2 海は甦える ②(山本権兵衛) 江藤 淳(1976)

 

*1977年、日本初の3時間ドラマとして放映された際に山本権兵衛を演じた仲代達矢と、妻登喜子役の吉永小百合(TBS)。

【あらすじ】

 明治天皇崩御し、陸軍の乃木大将が後を追って切腹した時代。

 山県有朋を総帥とする陸軍が政治の世界でも跋扈し、立憲政友会を与党とする西園寺公望内閣は陸軍の攻撃で倒れ、代わりに組閣した長州閥で陸軍大将の桂太郎内閣は、大正デモクラシーの中、短期間で崩れ去った。この間山本権兵衛藩閥に属するも、政党および国会を尊重し、伊藤博文立憲政友会に好意的な立場をとる等、護憲運動にも理解を示したことにより、次期総理の呼び声が高まった。

 

 桂太郎内閣の後、再度西園寺公望に大命が降下すると思われたが、責任を取り政友会党首を辞任する腹の西園寺はこれを拝辞し、山本権兵衛を後継に推薦する。権兵衛は西園寺に政友会の約束を取り付けて、ついに1913年山本に組閣の大命が下る。薩摩閥では18年振り、海軍出身の総理は初となった。

 

 権兵衛は「将に将足る器」だった。権兵衛の演説は「虎の咆哮」を連想させ、味方を奮い立たせ、敵をひれ伏させる迫力があった。そして「虎の眼」で国会の議場を睥睨する迫力は、議場の主に相応しい佇まいを見せつけていた。その姿を見て、野党となった犬養毅尾崎行雄らは、敵の強大さを感じ嘆息する。

 

 そして海軍出身ながら、軍部大臣現役武官制を事実上廃止することを断行した。これは軍部の横暴が抑止し、陸軍の喉元に合口を突き付けるものだった。これにより国民の人気は沸騰するが、陸軍そして官界を握る山県有朋をあからさまに敵対することになる。これで衆議院の野党、官界の勢力が強い貴族院、そして陸軍という「艦隊」に囲まれることになる。この包囲網を、権兵衛は強引に突破しようとする。

 

 現役の陸軍大臣及び軍令総長が、現役武官制廃止に異を唱えてきた。背景には西園寺内閣を倒閣に追い込んだ陸軍二個師団増設問題もあった。山県有朋の意向は間違いないが、倒閣運動までには至らないと見切った権兵衛は陸軍大臣を更迭し、非長州閥の軍人を大臣に命じて、山県との対決姿勢を鮮明にする。そして陸軍の増師問題は棚上げにして、海軍の八・八艦隊建軍を推進していく姿勢と見せる。

 

  山本権兵衛ウィキペディア

 

 そこに、ドイツのシーメンスによる日本海軍高官への贈賄事件が発覚する。シーメンス社員が盗み出した資料から発覚し、海軍と三井物産も巻き込んだ一大汚職事件へと発展する。国民の支持は怒りへと反転し、山本権兵衛内閣は一転窮地に立たされる。与党として支えた政友会の原敬も、その後の宰相を目指すには、汚職の印象が強くなった権兵衛と心中はできないと判断する。権兵衛は勅諭を利用して政権維持を目論むが、支える者はいなくなり、やむなく内閣総辞職に至ってしまう。

 

 総辞職後、後の海軍大臣八代六郎は、山県有朋との密議を重ねた上で、山本権兵衛を電撃的に予備役に編入させる。陸軍の山県有朋に唯一対抗できる人材を海軍自ら葬ったことになり、海から陸へ活躍の場を移した権兵衛に、海へ戻る道は閉ざされた。

 

 そして権兵衛の実力を恐れたのは1人山県だけでなく、ドイツ皇帝ウィルへイム二世や、英米の政治指導者たちも同じだった。世界は権兵衛の活躍の場を塞いで、第一次世界大戦を迎えることとなる。

 

 

 

【感想】

 山本権兵衛を主人公とし、時に主人公を離れ、幕末から大正にかけての政治や軍事の盛衰を丹念に描いた大河小説。1977年に日本初の3時間ドラマとして扱われた本作品は、当時中学生の私はなぜあまり有名でない人を取り上げるのかと疑問に思ったもの(そう思ったら、次の3時間ドラマは伊藤博文を主人公とした「風が燃えた」になった)。1980年には日露戦争を主題とした「203高地」が映画化されて、さだまさしが主題歌「防人の歌」を歌った。この時はそういう時代だったのか。

 

  

*陸軍の総帥、山県有朋は、明治時代の「目白の闇総軍」と言われました(国立国会図書館)。

 

 シーメンス事件は歴史の授業で名前だけだったが、どうも「大山鳴動して鼠一匹」のようであり、仮に山県有朋らの謀略だとしたら、目的を完遂した点では見事としか言い様がない手際。山本権兵衛は日本でも、そして世界から見ても「出すぎた杭」の存在だったのだろうか。

 そのため本作品はここで終結するが、山本権兵衛の政治家人生はまだ続きがある。ワシントン海軍軍縮会議で成果を上げた海軍出身の加藤友三郎が急死した後を継ぐ形で、第一次内閣が総辞職して9年後の1923年(山県有朋が死去した翌年)に大命降下し、第二次山本権兵衛内閣を組閣する。しかし組閣した日は関東大震災の翌日で混乱した渦中。新任の井上準之助大蔵大臣はモラトリアム(支払猶予令)を果断に実施、復興院総裁には「大風呂敷」後藤新平を用いて帝都復興計画を持ち上げ、その間普通選挙法の成立を進めるなど、ステーツマンとしての見識と実行力、そして若き政治家を引き上げる力を見せる。しかし摂政宮が共産主義者に狙撃された虎ノ門事件が起きると、政治的責任を自ら取り総辞職する不運に「重ねて」見舞われる。

 

*第二次山本権兵衛内閣で、井上準之助関東大震災の混乱をとりまとめる活躍を見せました。

 

 権兵衛はその後およそ10年生きた。元老として扱う声もある一方、西園寺公望などは反対し、権兵衛も断り続けたようである。まるで三船敏郎のように端正でかつ強面の容貌だが、その内面は、筋は通すがシャイだったのか。最愛の妻登喜子に先立たれた同じ年、あの時と同じように、カッターを漕いで追いかけるかのように、81歳で死去した。

 

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