小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

14 菅原道真 見果てぬ夢 三田 誠広 (2013)

【あらすじ】

 儒学者としては当代最高位とされる文章博士にして従三位・参議となった菅原是善の三男に産まれた菅原道真は「管三」と言われた。兄二人は早逝したため嫡男の扱いで、父が営む私塾「菅家廊下」で勉強を重ね18歳の若さ文章生に合格し、周囲から一目置かれる存在となる。

 

 その「菅家廊下」で道真は桓武天皇の嫡男にして、平城天皇の孫にあたる在原業平と出会う。父が政争に巻き込まれ「在原」の名で臣籍降下をした家系だが、当代きっての色男で和歌の道にも詳しい。業平が気になる道真は、業平から和歌の心を教えて貰う。15歳で10歳の妻宣来子(のぶきこ)と結婚した道真だが、色恋には全く縁のない朴念仁で、儒学によって「君主が国を統べ、臣民が忠義を尽くして国は平らかになる」考えしか頭になく、和歌の心は理解できない。妻はそんな道真を支えていく。

 

 22歳の時、応天門が炎上する事件が起きる。道真は父是善の代わりに時の権力者、太政大臣藤原良房に会い、事変の鎮定を指揮するように訴える。病気がちの良房が事件の収拾にあたるが、それは道真の描くものとは違い、良房の政敵を追いやり、藤原北家の権勢を高める結果となった。

 

 その後良房やその養子である基経は道真の学識を信頼し、官職の職能や皇位の継承などを諮問して自身の朝廷支配に役立てようとする。摂政・関白として朝廷を牛耳ったかに見えた良房・基経だが、入台した基経の妹、高子と淑子はともに在原業平と付き合いがあり、業平に後ろ髪を引かれたまま天皇の皇妃となった経緯があった。そのため高子は子育てに熱心でない反面、容姿で高子に引け目がある淑子は女官として出世して尚侍となり、裏から朝廷を牛耳ろうとして、基経の思い通りにならない。

 

 

 菅原道真太宰府天満宮HP)

 

 儒学者として筋を通す道真は、藤原基経に忖度しないで自分の意見を通すため、疎まれて京から遠ざけられて讃岐守に任じられる。そこで道真は貴族の荘園が増大して、藤原北家を中心とした貴族に収入が増加し、朝廷は財政危機となっている実態を知る。

 

 道真が京から離れている間情勢は変化する。新たな文章博士は基経の思いに沿わない答申をして遠ざけられ(阿衡事件)、元々道真が儒学の基本を教えた宇多天皇が即位して、道真の学識を待ち望んでいた。讃岐守の任期が終ると直ぐに京に戻され、基経からは子供たちのその後を託され、宇多天皇からは身近な立場で政治の頼りにされる。道真は右大臣まで昇進し、基経の子で経験の乏しい時平と共に天皇の内覧となり、事実上政治を仕切ることになる。

 

【感想】

 雷神を意味する「天神様」と呼ばれて学問の神様として祀られる一方、政敵が死後不可解な死を遂げていったことから、「怨霊」として扱われている菅原道真摂関政治が始まる良房・基経の時代に学識が認められて政界の第一人者に出世するも、妬みも買い、罪を受けることになる。

 先に取り上げた「王朝序曲」では、嵯峨天皇が「祟りの連鎖」を断ち切って、次の後嗣を弟の淳和天皇に、そして淳和天皇は自分の息子を皇太子とした。しかし嵯峨天皇の皇妃橘嘉智子が自身の子を皇位に継がせたい思いを読み取り、良房が「不比等並みの」忖度で、時の皇太子を廃して橘嘉智子の子、仁明天皇を即位させた(承和の変)。このため良房が人臣で初の摂政となる頃から物語は始まる。

 藤原良房ウィキペディアより)

 

 良房は嵯峨天皇の娘を妻に娶ったことに感激して、他に妻を求めずに結果として嫡男に恵まれなかった律儀さを見せたが、政治に関しては「妖怪」のような存在感を醸し出している。対して養子の基経は酒好きで、感情のコントロールがつかずに、酒に飲まれる脇の甘い性格を描いている。対して菅原道真儒学者として真面目一方、勉強一筋で処世術には縁がない。そんな「不器用なサラリーマン」のような生き方をする道真を、5歳年下の妻宣来子が温かく、時には母親のように見守る姿がいい。

 勉学を頼りにして極官まで出世をした人物として有名だが、父も参議まで務めていることは不案内だった。単なる「成り上がり」ではなく、それなりの血筋もあったと思うが、摂関政治全盛の時に、時に良房・基経にも頼りにされて、その子時平には貫禄の差を見せつけて自然と「壁」となってしまった道真。それは本作品の副題通り、国家のために荘園など藤原北家の権益を奪って、朝廷中心の政治を取り戻す「見果てぬ夢」を隠そうとしなかった姿である

 宇多天皇が譲位してしばらくすると、道真の異例とも言える出世に対して藤原北家を中心とした嫉妬から、太宰権帥に降格、実質的な流罪になる。罪人として食事も満足に与えられずに、太宰府に着いたときはもう痩せ細り、2年後には亡くなる。

  宇多天皇ウィキペディアより)

 

 京を離れるとき、道真が苦手で在原業平から教わった和歌の心。別れては生きていけない胸が痛む気持ちがようやく理解でき、初めて恋歌を詠んだ。

君がすむ 宿の梢をゆくゆくと かくるるまでも かへりみしはや

 藤原時平が亡くなったのは道真が死んだ6年後。道真流罪に加担した源光が急な雷雨に巻き込まれ死んだのが10年後。そして帝の側近だった藤原清貫が清涼殿で雷に打たれ亡くなったのが27年後。これらのことから道真は怨霊扱いされて天神様として祀られるが、その生き方は怨霊とはほど遠い。

 怨霊とは、後ろめたい行動を取った人の心に宿り、広がることから生まれるのだろう