小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

15 落日燃ゆ(広田弘毅) 城山 三郎(1974)

【あらすじ】

 1878年に福岡県の石工の息子として生まれた丈太郎(後の広田弘毅)は、父を継ぐことを疑わなかったが、学問に優れ周囲の協力もあって中学に進学し、その後無償の陸軍士官学校への進学を希望する。しかし日清戦争後の三国干渉に衝撃を受けて外交官を志すべく、東京帝大に進路を変更した。福岡の右翼団体玄洋社首領の頭山満の紹介より、郷土の先輩、外務省の山座円次郎の知遇を得て、学生時代から満州へのスパイまがいの任務もこなす。そのため外交官試験の勉強は捗らず落第するが、翌年には首席で合格。入省前にはこれまた玄洋社幹部の娘、静子と結婚する。

 

 外務大臣加藤高明の腹心として活躍していた山座円次郎。広田はその秘蔵っ子として将来を嘱望されたが、当の本人は自ら計らわず淡々と目の前の仕事をこなす。しかし敬愛する山座が急死しまうと、外務省は次第に加藤高明の義弟(妻同士が岩崎弥太郎の娘)、幣原喜重郎が権力を掌握し、広田の1期上の佐分利貞男が幣原の寵愛を受けて台頭する。第一次大戦後のベルサイユ講和会議やワシントンの軍縮会議など華やかな外交の舞台で佐分利は活躍するが、広田は日本で留守番となった。情報局から欧米局長とキャリアを積むが、その後外交の中心から離れたオランダ公使となり、キャリアは打ち止めと思われた。

 

 ところが佐分利が謎の拳銃自殺を遂げると、省内は松岡洋右白鳥敏夫ら強硬派が勢いを増す。その風潮を嫌った幣原は、手堅い外交手腕の広田を重用する。1933年、海軍出身の斎藤内閣の元で外務大臣に就任。組み易しと見た広田に陸海軍は軍威拡大を迫るが、外交の必要性を一々反駁して独走を許さず、総理の斉藤や蔵相の高橋是清、そして駐日米国大使ジョセフ・グルーの信頼を得る。

 

 2・26事件によって岡田内閣は総辞職し、近衛文麿に組閣命令が下ったが、近衛は病気を名目に辞退したため、広田が推された。広田は任に非ずと拒み続けたが「背広の似合う人」が今回総理の条件ということを耳に挟み、ついには承諾し広田は総理大臣に就任する。しかし閣僚人事に関して陸軍から細かい横槍は入り、2・26事件を起こしても変わらない陸軍の姿勢に広田は嘆息する。

 

  広田弘毅ウィキペディア

 

 総理就任後は大規模な粛軍を実行させたが、事件責任者を大量に予備役にしたために、軍部大臣現役武官制の復活を認めざるを得なくなり、陸軍の意向に振り回されることになる。1937年、議会で陸軍を侮辱した、しないで口論となり(割腹問答)、激怒した陸相寺内は衆議院解散を要求するが、大勢は反対。このため広田は予算を通さず閣内不統一を理由に内閣総辞職を行った。

 

 同年第一次近衛内閣が成立し、外務大臣に就任する。しかし組閣後間もない7月7日に盧溝橋事件が勃発し、広田は不拡大方針を主張するも中国戦線は泥沼化していく。その後太平洋戦争が開戦、広田は貴族院議院、そして元老の立場となるが、戦争を回避することは出来なかった。

 

 終戦によって広田はA級戦犯として東京裁判の法廷に立つことになる。自ら計らわない男は全く弁明をせず、「日本外交は陸軍との折衝が主となっている」と歎いた陸軍高官に混じり、ただ1人の文官の死刑囚として刑場の露と消えた

 

 

 

【感想】

 広田弘毅を戦争責任から見ると、真っ先に切り捨てられる存在に見えたが、天皇を補弼する責任を果たせなかったとして、自ら計らわない。東京裁判でも罪状認否を行なう前、弁護団に「自分は無罪とは言えない」と最後まで抵抗した。元老西園寺が開戦前に亡くなり、浜口雄幸井上準之助犬養毅高橋是清などの政党人が銃弾に倒れ、近衛が自殺した中で、文官の元老挌として唯1人生き残ってしまった責任を、本来は外交官に過ぎなかった広田が背負うことになる。

 

  

 幣原喜重郎。当初は広田を軽んじましたが、その後戦時色が高まると堅実な広田を重用して「協調外交」を推進。戦後は総理大臣として敗戦の混乱処理にあたりました。

 

 本作品発刊後の1990年に公開された「昭和天皇独白録」によると、昭和天皇は広田と近衛について批判的だったという。軍部の意向を阻止する姿勢が弱く見られ、なし崩し的に認めてしまった印象があったのだろう。文官として果たすべき役割を期待していただけに、その反動が大きかったと思いたい。

 ペリー来航に発して老中阿部正弘が対応し、勝海舟小栗忠順らが渡米して始まった近代日本外交史。大隈重信井上馨陸奥宗光ら幕末の志士たちが交渉し、加藤高明幣原喜重郎ら外務省プロパー組から引き継いだ外交官の本流。石工の息子が自ら計らぬ外交官人生を送ることで、総理になり、元老挌となり、そして戦犯として処刑されることになった。戦争の幕引きは、開戦の時の外相だった後輩の東郷茂徳に機会を与え、戦後の外交は入省同期の吉田茂に託すことになる。「自ら計らぬ」とは、自らの役割を知っていたことに繋がる。

 

 小学生の時、書が上手ということで地元の大宰府天満宮に広田の字が掲げられたというエピソードで始まる本作品。外交官にありがちな、血閥を求めることをせずに恋愛結婚をした「石工の息子」。そしてその妻は夫の決意を知り、妨げにならぬよう東京裁判の判決前に自害する。子供たちには死刑判決を受けても「階段を滑り落ちないように上がってください」と父に語り、父は「よしよし」と答える、余りにも不似合いな場所での家庭の会話。

 死刑執行前に「万歳」と叫ぶ東条英機らを見て「マンザイ」と言った広田。その真偽は定かでないが、多くの若者を戦場に送り込んだ「万歳」は、幕末に発生した「ええじゃないか」と同じく、狂騒的に発生して日常を麻痺させるものであり、戦争を止められなかった広田から見ると「マンザイ」に見えたのだろう。

 

 「東洋のシンドラー」と言われた杉原千畝は、広田弘毅を尊敬して息子に「こうき(弘樹)」と名付けた。

 

  

広田弘毅が小学生の時に書いた「天満宮」の扁額。

 

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