小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

19 大一揆 平谷 美樹(2020)

【あらすじ】

 南部藩は1772年のラクスマン来航事件より蝦夷防衛を命じられ、財政負担が増加した。南部家の家格を上げるために10万石から20万石に加増となったが、これは表高のみの加増に留まり、収入は変わらず20万石相当の軍役を負うこととなり、藩財政は窮迫する。更に気候も土地も稲作に適さない中で、体面を繕うために水稲生産を強行したため、小氷期の中で連年凶作に見舞われ、民衆も困窮していた。

 

 しかし藩は抜本的に財政改革をする術を知らない。海岸線の土地、通称三閉伊と呼ばれる山と海に囲まれた地域は、一揆が起きても弾圧しやすいという理由で重税を課していく。一揆のたびに鎮圧され、また時に藩が一揆側の要求を呑むことで一揆が収束したが、終息後に藩が約束を破る繰り返しになっていた。

 

 村の肝入(きもいり)を何度も勤めた旧家出身の三浦命助は、皆よりも身体1つ大きく、また知恵も回り周囲から一目おかれていた。命助は馴れ合いの一揆では意味がないと仲間と距離を置くが、重税に苦しみ借金が膨れあがり、遂に一揆に加わる。一揆を起こすなら、生きて要求を通さなければ意味がない。

 

   *三浦命助(釜石市HP)

 

 それまで一揆とは距離を置いていたために、周囲からは不信の目で見られるも、知恵を出して信用を少しずつ築いて、戦略を持った戦い方を皆に説得する。その方法は、盛岡藩を動かすために、隣国の仙台藩に大量の一揆勢を侵入させて越訴を行う。場合によっては幕府の耳にも入るようにして、盛岡藩が聞き入れる状況をつくるようにする。

 

 命助が仙台藩の代官に差し出した要求は3つ。第1は前藩主利義を国元に戻すこと。第2は三閉伊の百姓を仙台領民として受け入れてもらうこと。そして第3は、三閉伊領地を盛岡藩領から天領もしくは仙台藩の領地にしてもらうこと。第1院政を布く、豪奢な乱費で悪評が高い先代藩主南部利済に対する手当としてのものだが、第2、第3の要求は、交渉の場に仙台藩を巻き込むことで、税金などの要求を通す方便だった。

 

 しかし仙台藩はその要求に乗ってきた。藩祖伊達政宗から流れる領土拡大の野望に沿い、駆け付けた南部藩の役人たちを罵倒して交渉の場を仕切ろうとする。南部藩でも今回は事態を重く見て、3つの要求とは別に出された49条の要求を、全て呑む形で事態の収拾をはかる。

 

 しかし南部藩内では、強硬派が一揆勢の家族を捉え、またペリー来航が重なり仙台藩浦賀警備の命が下り、早々に解決が必要となる。幕府を介して、南部藩一揆勢が直接交渉することになる。仙台城下で始まった交渉では、南部藩も前非を悔い、反省しながら一揆勢の要求を受け入れる。命助が提言した49条の要求は、全て藩政の改革に通じる内容だった。お互いが膝を突き合わせて話し合うことで理解が進み、命助らは一揆を終える。新たな税金は全て廃止されて、一揆勢も囚われることなく、家業に戻った。

 

 

 

【感想】

 鎌倉幕府創業の時から陸奥国を支配する南部家は、甲斐源氏の流れを汲む名門。しかし戦国の時代に南部家から独立した津軽為信豊臣秀吉徳川家康と天下人を相手に上手く立ち回り、津軽藩として認められる。重ねて津軽藩は石高が増加し、家格で本家の南部藩を上回ることになった。「本家」南部家はこれが許せず、実高がないにも関わらず「面子」で石高を上げてしまい、藩の負担増を招き財政は逼迫する。

 

 南部藩藩祖、南部信直敵役で登場し、本作品も予告していました (^^)

 

 南部利済は好色の余り廃嫡された南部利謹の子で、本来は藩主の血筋ではなかったが、候補が早世したために第12代藩主となった。本作品では悪意のない、重商主義によって藩の財政改革を行う人物として描かれているが、急激な政策転換と大規模な増税、そして驕奢な生活振りと取り巻きの側近による悪政で評判は悪く、何度も一揆を招く要因とされている。

 1836年から37年にかけて、度重なる増税によって生活に窮乏した民百姓たちは、仙台に逃散していく。一揆を収拾するために首謀者は無罪とする約束も、合意後は簡単に踏みにじる。1847年には約束した新税の廃止を度重ねて行い、お互いの感情は拗れてさらに大きな一揆へと広がる。藩は一揆の首謀者を許す約束を反故とし、利済は長男で人格者だった南部利義を隠居させ、院政を開始する。

 このように度重なる一揆と、反省を見せない南部藩との間での緊張は更に高まり、本作品の舞台となる1853年の一揆となる。三閉伊通りの人口約6万人に対して参加者は1万6千人に上る大規模な一揆となった。その首謀者と言われる三浦命助後日逃亡先で捕らえられて牢死したとの話はあるが、本作品では全てが元に戻ったとしている。

 藩側は家老や参政の蟄居をはじめとして、勘定奉行大目付以下2百数十名が罷免され、利済派は一掃されることとなり、一揆としては大きな収穫をもたらすものにつながった。そして藩政後見と称し院政を敷いていた利済は幕府の命令で江戸に呼び出され、江戸城下にて謹慎となった。

 その後まもなく戊辰戦争が起き、奥羽越列藩同盟に加入して盛岡藩は官軍と戦う。南部家は幕府側としての責任を取らされて白石に転封を命じられたが、領民は南部家を盛岡に戻そうと東京まで押しかけて、その要求を獲得する

 

 

 なお戊辰戦争の時の家老で、後に斬首とされる檜山佐渡を主人公に、作者は「柳は萌ゆる」を発刊したが、その中では今回の大一揆を、盛岡藩側から描いている。

 

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