小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

1 津軽太平記(津軽為信) 獏 不次男(2005)

   *Amazonより

【あらすじ】

 容貌魁偉、髭面の大男の大浦為信。父が戦で亡くなり、叔父の当主為則に可愛がられて、そして文武で卓越した能力を見込まれて次代当主に抜擢される。そんな中、津軽の地に立ち寄った雲水から世の中の動きを教えられて興味を持ち、軍師に招こうと「三顧の礼」で迎え、雲水は面松斎と名を変え「鷹」に対する「鷹匠」の気持ちで為信に仕えることを決意する。

 

 それからの為信は、ただ戦うだけでなく「準備」を周到に巡らすようになる。南部家からの厳しい合力米の要求に対しては、村に火事を起こすことで拒否する一方で、村民には迷惑がかからないように、事前の準備と事後の手当は怠らない。軍事行動を起こすことで実戦の訓練のみならず、周辺の豪族の動向の見極め、兵力の動員能力や指揮官の能力を確認するとともに、南部家が攻め込む口実を作ろうとした。また背後の秋田氏を抑えるために、山形の最上義光を味方に引き入れる「遠交近攻」政策も怠りない。そうして父の敵である石川高信を攻め入り念願の津軽を南部家から奪取して、名を津軽為信と改めた。

 

 面松斎は金を惜しまず連絡網を築きあげた。落塊した前関白近衛前久にも春秋の貢ぎ物を欠かさずにしで、中央との繋がりも保った。そこに豊臣秀吉が北条征伐を行ない、合わせて東北の諸大名に召集をかけ、従わない大名は改易にするとの情報が入る。為信は南部家から奪取した津軽の地を安堵してもらうために、いち早く上洛して信任を得る必要があると考えた。

 

 急ぎ上洛を果たした為信は面松斎の入れ知恵で、近衛家の家紋と華麗な軍装で目を奪いながら列の先頭に容貌魁偉の為信を配置し、敢えて朴訥とした口調に津軽訛りを交えて訴える。秀吉はその姿に好感を持ち、領地を安堵する朱印状を受けることに成功する。対して領土を奪取された南部信直は為信に対して敵愾心を露わにして、確執が長く続いていく。

 

  津軽為信ウィキペディアより)

 

 秀吉没後、家臣たちは三成との繋がりから西軍に加わる意見が主流だったが、為信の武将としての「勘」は東軍の家康に向く。決断できない為信は両面作戦を取るが関ヶ原の戦いは結局1日で決着がつき、津軽家は大垣城攻めで面松斎の推薦で仕官した伊賀の上忍、服部長門守康成の手立てで開城の功を挙げて面目を保つ。幕府はその功から津軽4万5千石から川中島10万石への転封を授けるも、津軽藩の実高は15万石以上あり、検地の際禄高を誤魔化した経緯があって転封の褒美を辞退した。

 

 為信と面松斎の「夢」は、津軽平野にそびえ立つ城郭を築城することでついに築城に着手する。そんな中1607年に嫡男信建が京で病に臥せそのまま病死。為信は見舞うために上洛するが間に合わず、為信自身もその2か月後に京都で死去した。享年58歳。残された面松斎は比叡山で修行していたころから兄事していた僧天海に後を託し、その後の後継者争いや再度の転付の話から津軽家を守っていく。

 

 為信の夢であった弘前城の完成を見届けて、面松斎はその翌年1612年に息を引き取る。

 

【感想】

 青森でも津軽地方と南部地方は仲が悪いとされているが、その原因を作ったと言われる津軽為信。南部の領地を奪取した上に秀吉、家康と天下人に上手く立ち回っていい思いをしたと、南部側は思っている。その上こちらの作品は弘前高校の校長先生(!)の経歴を持つ作家が著わしたもので、どうしても津軽寄りに描かれている。そのためか南部からの独立はもとより、家中の争いやお家騒動、名家北畠の浪岡御所攻撃、家臣を暗殺、留守中に城を占拠されるなど「影の歴史」には深入りしていない印象を受ける。

 そこで本作品は沼田祐光(面松斎)という前歴が不明の「実在する」家臣に新たな息吹を吹き込んで、魅力的な人物として為信に仕えさせた。実在の人物も軍師としての「必修科目」陰陽道や易学などに通じてはいたが、山伏との繋がりを持たせて情報収集に長け、奥州出身の説もある天海を叡山で一緒に修行した僧として絡ませた。盧名家との繋がりのあった天海を本作品では津軽家と繋がりが生じる最上家に変えて、最初は津軽家と最上家の連携の橋渡し役に、後に徳川幕府への伝手の役割を与えた。二代目の信牧は天海によく仕え将軍家からも覚えめでたく、外様大名が次々と改易される中、後の津軽藩の発展に寄与する。そして面松斎は為信の度重なる褒賞も辞退して、100石取りのまま世を終える。

 

 

 *桜の名所としても全国に名高い弘前城ウィキペディアより)

 

 津軽為信が秀吉に面会する様子は伊達政宗を連想させる。ほかにも様々な「戦国時代」の挿話が透ける話をちりばめながら、津軽為信が生き生きと北の大地で躍動する姿を描ききる。そんな中、安部龍太郎が「十三湊の海鳴り」で描いた十三湊が、津波により衰退したとサラリと書かれているのが寂しい。実際には安東家が衰退したことと十三湊が浅瀬になってしまい、交易港としての価値が14世紀にはなくなったと言われている

 

 為信が「名を捨て実を取った」禄高の誤魔化しも、その後石直しによって10万石となり、南部家より も家格が上になる事態が起きて、南都藩は悲憤棟慨(ひふんこうがい)に陥ったという。津軽藩の実高は10万石どころか28万7千石を超えていた津軽藩は幕末まで移封もなく順調に歩むことができただけでなく、この事でも「ライバル」南部藩は苦しめられることとなるが、これはまた別のお話です(将来取り上げます)。

 

*最近になり、津軽為信をより「人間臭く」描いた作品が発刊されました。