小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

18 薩摩藩経済官僚(調所広郷) 佐藤 雅美(1986)

【あらすじ】

 蘭癖大名として名をはせた島津重豪は、11歳で家督を継いでから隠居後して89歳で亡くなるまで実権を握り続けた。11代将軍徳川家斉の岳父の体面があり、また近代化た邁進したため浪費も激しく、1801年に121万両だった借金はみるみる膨らみ、1835年には500万両にも及んでしまう。当時の島津藩の月の収入が10万両であり、財政は完全に破綻していた。

 

 身分が低い城下士出身の調所広郷は、茶道家として重豪に仕えた。文字通りの「茶坊主」だが、重豪は「ダメモト」で借金調達を申し付ける。大坂の商人から「ドブに金捨てるのは構へんけど、薩摩様にご用立てするのだけは堪忍やで」とまで言われた薩摩藩。調所はいくつもの商人を回るがだれも相手してくれない。ところが出雲屋孫兵衛という両替商が10万両の融通を承諾してくれた。

 

 思わぬ調所笑左衛門の成功に重豪は驚き、調所を責任者に据えて出雲屋の助けを借り、財政の立て直しを命じる。まずは倹約を手掛けるが、巨額の借金を前に焼け石に水で、荒療治が必要だった。かくして余りにも強引な計画が練りあげられる

 

・利息は払わず、借金の返済期限を250年に延長すると通告(実質的な踏み倒し)

琉球と清に密貿易(唐物貿易)を行ない、商人にも斡旋する。

・島民を犠牲にして、奄美大島·徳之島·喜界島からサトウキビを搾取する。

・大阪の砂糖問屋を閉め出し、薩摩の黒糖を売りさばく

 

 国法にも反する内容で、幕府に知れれば改易の可能性もあるが、なりふり構わず突き進む。調所広郷の財政改革は重豪から孫の島津斉興の時代にまで及んだ。1833年に重豪が亡くなり、ようやく実権を掌握した斉興は、調所と二人三脚で財政再建に努め、1851年ころには50万~300万両とも言われる蓄財を成すまでに回復した。おかげで産業振興やインフラ整備にもお金を向ける余裕が出てくる。

 

  調所広郷ウィキペディア

 

 財政再建は成し遂げたが、斉興には心配事があった。嫡男の島津斉彬蘭癖と呼ばれ、また島津の娘を将軍家に輿入れを企むなど、巨額の借金を拵えた祖父重豪に余りにも似ていた。給金も満足に出せず、参勤交代もままならぬ状態に戻るわけにはいかない。斉興は側室由羅の子島津久光を後継にと考える。

 

 しかし斉彬を擁する改革派は、英邁の誉高い斉彬が40歳を超えても家督を譲られないことにしびれを切らし、幕閣の改革派の老中阿部正弘と結託して、斉興を隠居させるように仕向ける。その材料は密貿易の情報。阿部正弘は調所を呼び出し、暗に斉興への責任に言及する。全てを悟った調所は、節約を重ねた自分へのご褒美に、ただ一度の自分のために芸者遊びをした後、命を絶った。

 

 

 

【感想】

 島津家の財政破綻のきっかけとなった宝暦治水事件(1754年)。既に66万両の借金を抱える中、幕命によって施工された木曽三川木曽川長良川揖斐川)の治水事業は、当初の見積りよりも過大な費用が必要になる。過酷な状況により、工事中に薩摩藩士51名が幕府に抗議して自害、33名が赤痢などで病死し、工事完了後に薩摩藩の家老・平田靱負も責任を取って自害するに至った。費用は40万両にのぼり、借財は100万両を超えて、薩摩藩の財政は破綻状態に陥った。

 

 

 島津重豪。西洋好きと共に、長女の「篤姫(幕末の篤姫は、あやかって同じ名にしたもの)」を輿入させた一橋家斉が将軍に就任することで、「将軍の岳父」として浪費を重ねました(ウィキペディア

 

 直後に薩摩藩主に就任した島津重豪は借金を気にすることなく浪費を重ね、借金は雪だるま式に増えていく。重豪が江戸屋敷でお金を探したところ、ようやく1両見つけ出したことから、「わが貧乏、ここに極まれり」と嘆いたという。

 そんな中で「茶坊主」の調所広郷が、運命の悪戯で財政再建の責任者となる。財政に関しては素人だが、誇り高き武士では商人に頭を下げることができない中、硬軟取り混ぜた対応によって、成果を出した。その方法は【あらすじ】で書いた通りで本来は言語道断だが、商人たちは250年割賦に対しても、「薩摩様から少しでもお金が取れるならば」と思ったそうである。

 ところが周囲は、調所の商人との厳しい交渉や、自らは質素に努めた生活を見ることなく、権力者の側にいる茶坊主と断じた。そこに「お由羅騒動」と呼ばれる後継争いが絡んでくる。江戸期の大名でも1・2を争う名君と呼ばれる島津斉彬を旗頭とする、西郷隆盛大久保利通ら改革グループにとって「憎き敵」であった斉興と調所のコンビ。しかし斉興と調所から見ると、斉彬は薩摩藩財政破綻に陥れた重豪の「悪夢の再来」。時計の針を戻すわけにはいかない。証拠はないが斉彬の急死も、改革グループからは「毒殺」と映った。

 

 調所広郷の死後、調所家の家格は下げられ、更に家禄と屋敷も召し上げられる。15年も経ってから遺族に追罰が下され、一家は離散する。「お由羅騒動」で苦渋をなめた「元勲」たちの恨みの矛先は、島津家に向かうわけにはいかず、自然と調所広郷1人に集中した。但し斉彬も、そして西郷や大久保も、調所の改革がなかったら活躍の場はなかったはずで明治維新も別の形になったはず。

 宝暦治水事件のように、死を以って藩の将来のために殉じた人が何人もいるが、明治維新という華やかな「舞台」の影で、その死は隠されてしまう。

 

 

 *島津斉興薩摩藩財政破綻調所広郷と共に立て直しましたが、嫡子斉彬と敵対して弟の久光を可愛がり、「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動を招いたとされています(ウィキペディア

 

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