小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

4 獅子の系譜(井伊直政) 津本 陽(2007)

【あらすじ】

 今川家は今川義元の治世となると、封土が伸張する。遠江国で三方ヶ原の北方を支配していた井伊直満今川義元に臣従したが、宿老小野政直の讒言によって義元に誅殺される。幼少の子直親家督を継ぐも、桶狭間今川義元が敗れると、周辺は混乱に陥った。直親は小野政直の子・道好の讒言により、今川氏真から今川を裏切った松平元康と内通した疑いを受ける。弁明のために駿府へ向かう途中で襲撃を受けて、29歳で殺害された。

 

 井伊家当主が二代続けて、同じように殺害され、残された嫡子の井伊直政はわずか2歳。周囲から狙われる中、早く一人前になるために、寺で学問や礼儀作法などを必死に修得する。直政は18歳の時に家督を継いで徳川家康に臣従すると、家康に才気を認められ、武田勢との戦いで戦功を上げていく。そして武田家滅亡のあと信長に上洛を求められた家康に付き添うが、そこで本能寺の変がおきる。

 

 家康最大の危機「神君の伊賀越え」を、直政は傍らで守り抜き、無事帰国した。中原で秀吉が勢力を伸ばすのを尻目に、家康は甲州や信州を支配下におき、120万石の領土を保持する大名に成長した。同じく100万石を持つ織田信雄、そして関東の覇者北条氏政と手を携え、秀吉も無視できない対抗勢力を作りあげた。

 

 秀吉と対決する可能性も考え、家康は旧武田家の有能な武士団を召し抱え、徳川軍の大きな戦力にしようとしていた。勇戦の武将が数多くいる中、家康はその役目を、若いが我武者羅な直政に命じる。武田家家臣を直政に集め、武田家でも特別だった「赤備え」の軍備で統一し、強力な軍を築くように求めた。

 

 大事な使命を受けた直政は、ますます思い詰めた行動を取る。自らを厳しく律し、家臣たちにも厳しい鍛錬を課すが、その厳しさは家臣が他の武将に移籍を希望するほどだった。「赤備え」の初陣となった小牧長久手の戦いでは、周囲の制止を振り切って猪武者のように先頭に立って敵に向かって、池田恒興軍を壊滅させる。

 

  井伊直政ウィキペディアより)

 

 その後家康と秀吉が和睦すると、家康上洛の際に人質として浜松によこした、秀吉の母の大政所と妹の見張りを命じられる。他の者が人質として厳しく対応したのに対し、直政は礼の適った所作で丁寧に対応し、大政所を感動させた。その意向が秀吉にも伝わると、後に秀吉から徳川家臣で一番の厚遇され、武だけではない一面を周囲に知らしめる。

 

 秀吉が亡くなった後の関ヶ原の戦いでは、直政は家康の子忠吉を連れて、斥候と偽って先鋒の福島正則を差し置いて戦いの火蓋を切る。激戦の中、直政も獅子奮迅の活躍をするが、戦いの趨勢が定まった後、島津勢の退却に立ち向かい、鉄砲傷を負ってしまう。関ヶ原の戦いの後の戦後処理に尽力したが、もう戦いの場に出ることができないことを実感したまま、2年後に鉄砲傷が元で42歳の若さで亡くなる。

 

 

【感想】

 徳川四天王の1人と言われた井伊直政だが、ほかの3人に比べて極端に若く、また譜代ではなく直政の代で初めて家臣となったことで性格が異なる。それでも家康から厚遇を受ける姿は、美男子と呼ばれた容貌から、家康の寵童と周囲からも疑われたという。

 但し作品では触れられていないが、井伊直政の祖父、そして父の悲惨な最期は、家康の祖父清康と父広忠が相次いで家臣に殺害された運命と重なり、その後の直政の苦労は、人質として暮した幼年時代の家康の苦労と同じ軌跡を描いている。そして20歳で自害した嫡子徳川信康の生まれ変わりと思ったと感じてならない。なお信康の祖母(築山殿の実母)は井伊家の出身でもあり、直政に愛妻の築山殿そして清康の面影が残っていた可能性もある。様々な点で、家康は直政に感情移入する要素がある。

 

  

 *「どうする家康」で井伊直政を演じた板垣李光人。こちらは家康への複雑な思いを見事に演じ分けました(NHK)。

 

 そして直政は家康の期待に応える人材だった。武勇のみの家中にあって学問や礼儀作法も学び、その上で戦場となると先頭に立ち、家康のためならば命を惜しまず仕える。後に裏切る「宿老」の石川数正に対して、天下人秀吉の面前にも関わらず「先祖より仕えた主君に背いて殿下に従う臆病者と同席すること、固くお断り申す」とまで言った武骨者でもある。

 そんな自分にも家臣にも厳しい直政でも、可笑しなエピソードがある。戦場で芋汁を振る舞われた直政は口が合わず、当時貴重だった醤油大久保忠世に求め、周囲の他の武将から非難されたという。直政はこのことでますます自らに厳しくなる。

 若くして家康から寵愛された直政は、周囲から認められるために60キロもある鎧兜を着て、戦場でいつも傷だらけになって奮迅した。はるかに軽い鎧兜で見事な戦いを見せながら生涯傷1つ負わなかった本多忠勝とよく比べられるが、直政にはそれだけの思いがあったのだろう。

 

   *60キロあった? 復元「鉄朱塗五枚胴具足」眞玄堂HPより

 

 なお直政の父が亡くなり、その従兄弟直盛が一時家督を継いだが、その従兄弟も桶狭間の戦いで戦死した。直政が2歳であったために、直盛の娘の次郎法師直虎と名乗って当主となったという話があり、大河ドラマにもなったが、真偽は定かでない様子。

 祖父、父と非業の死を遂げた「獅子の系譜」は、同じ思いを持つ家康に忠誠を尽くすことで、徳川家臣団で1番の石高を封じられた。大老職を担う家柄となり、子孫も直政の思いを受け継いで、徳川幕府を最後まで支えていく。

 

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