小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

3-2 新三河物語 ② 宮城谷 昌光(2008)

 

 *「どうする家康」で大久保忠世を演じた小手伸也。なんとなく、大久保一族の風貌を彷彿とさせます(NHK

 

【あらすじ:中巻】

 一向一揆を抑え三河を平定した徳川家康は、武田信玄と不可侵の約を結び、今川の領土である遠江国へ侵攻する。信玄は駿河国を襲うが、その後遠江国へも侵略の手を伸ばし、戦いの火蓋が切られようとしていた。しかし織田は徳川に対して援軍を送らず、家康は三方ケ原の戦いで信玄に完膚なきまでに敗北してしまう。大久保一族も犠牲がでたが、大久保忠世は敗北後に武田軍に夜襲をかけて、徳川軍の意地を見せた。

 

 ところがその信玄が死去する。後を継いだ武田勝頼は、猛将だが軍略と治世の能力に欠け、長篠の戦で信長の挑発に嵌まり大敗する。その戦場で大久保忠世・忠佐の兄弟は誰よりも武田軍に食らいつき、織田信長は「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」と激賞した。

 

  *忠世の弟、大久保忠佐ウィキペディアより)

 

 徳川家は武田の脅威からは脱したが、家康の嫡男徳川信康が横暴で、妻で信長の娘、徳姫は信長に謁言の文を送る。家老の酒井忠次は信長の評価が高い大久保忠世を連れて弁明に行くが、威に圧倒された2人は申し開きができず、結局信康は自害を命じられる。

 

 忠世・忠佐の弟にあたる平助こと大久保彦左衛門忠教は、遠江国平定で初陣を飾り、武田家滅亡後の信州上田攻めに兄に付き従う。しかし主将の鳥居元忠は、信康の側で仕えていた人物。大久保忠世らが信康を自害に追い込んだと思い込んだために意気が合わず、真田昌幸の巧みな戦術もあり、上田城攻略は失敗に終る。

【あらすじ:下巻】

 家康が江戸に移封されると忠世が、そして忠世の死後は子の大久保忠隣が、重要拠点の小田原城主を任せられ、弟の彦左衛門忠教も3000石を与えられる。関ケ原の戦いでは徳川秀忠に従って再度上田城攻めを行うが、軍監の本多正信は軍規違反を咎めては、攻撃の邪魔をしていた。そのため関ケ原の戦いに遅参するが、正信は素知らぬ顔を通したまま。忠隣は秀忠を庇うも、結局秀忠1人が責任を背負ってしまった。

 

 家康は天下人に上り詰めたが、ここから大久保家は苦難の時代を迎える。家康は嫡子信康の自害を、忠世の「讒言」と信じていた。忠佐の家は嫡子が早世し彦左衛門忠教も養子を固辞したため、改易とされた。そして大久保本家も忠隣の嫡男が早世したことに加え、武田家の旧臣で鉱山開発で活躍し、大久保家が庇護した大久保長安が、死後巨額の不正蓄財をしていたことが発覚し、本家もついに改易となってしまう

 

  *大久保忠隣(ウィキペディアより)

 

 家康の死後、大久保家に恩義を感じていた将軍秀忠は、大久保忠隣にお家再興を願い出るよう伝える。しかし忠隣は、家康の誤りを認めることになるとして断り、75歳で死ぬまでひっそりと暮した。

 

 残された彦左衛門忠教は、幾多の戦場で「殿のために」犠牲となった一族を思い、幼少の時上和田砦で、総領の大久保忠俊(常源)から贈られた墨を使って、大久保一族の戦いの歴史を「三河物語」として記す。その書は門外不出とされたが、祖父家康の実像に迫りたい三代将軍家光は、何度かお忍びで彦左衛門の屋敷に通う。

 

 彦左衛門は80歳の天寿を全うするまで、「天下のご意見番」とされた。

 

【感想】

 天下を獲得した後は「功労者」たちの間で権力争いが行われる。鎌倉幕府しかり、足利幕府しかり、豊臣政権しかり。そして徳川幕府は大御所家康と将軍秀忠の二元政治において、家康側の本多正信の嫡男本多正純と、秀忠側の大久保忠世の嫡男大久保忠隣が対立する。家康存命中は本多正純が優勢で、大久保忠隣は遂に改易となった。

 宮城谷昌光は家康の大久保一族への冷遇を、嫡男信康の件で信長に弁明できなかったことが原因と見た。家康自身が甘やかせて育て、また信長に言い返せなかったが、そこは省みない。酒井忠次は、死ぬ間際に子の行く末を家康に頼むが、家康は信長に弁明できなかった忠次に対し、「そちも、自分の子が可愛いか」と冷徹に答えたという。「我慢の人」の家康も、年を重ねると自制心が緩み、粘着質の性格が顔を出す。「なんじどもの思、七代、忘れぬ」と感謝の言葉を受けた大久保家にも、「冬の時代」が訪れる。

 家康の死後、二代将軍秀忠の力で大久保家は多少報われた。大久保家の家督は忠隣の嫡孫の大久保忠職が継ぐことが許され、その養子で忠職の従弟・忠朝の時に小田原藩主として復帰を果たす。対して本多正純は秀忠側の側近たちから嫌われて改易となり、大久保彦左衛門は喝采を上げたと言う。

 

  *大久保彦左衛門忠教(ウィキペディアより)

 

 彦左衛門は死の間際に家光と幕閣より5000石の加増を打診されたが、大久保家への数々の冷遇を忘れることはなく、一言「不要」と固辞したと伝えられている。その姿勢は、家康は人質時代に一度も不満を口にしなかったので、「大久保家の者は、いかなることがあっても、黙って、たえようではないか(下巻79頁)」と、忠佐が彦左衛門忠教に諭す場面に現われる。大久保忠世は、北条攻めで荒れた小田原を封土されるが、自ら断食してまで人々の救済に努める姿へと続いていく。

 

 そんな大久保一族を、三河出身の宮城谷昌光は日本人の「原型」と捉えた。一族の盛衰を大久保彦左衛門が記した「三河物語」に、自分なりの「史観」を加え、新たな命を吹き込む。時に「阿衡」や「京兆」など、日本史に登場する言葉のいわれを紐解きながら。

 

 現代では余り使わない語句を、古代中国で生まれた本来の意味を汲み入れて、律韻を持って文章に「打ち込んで」いく。考え抜かれ、磨き抜かれて打ち込んだ語句は、時に碁石のような存在感を示し、紙面は美しい光芒を放つ棋譜となる

 

  *大久保家系図(本書より:蛍光ペンは管理人)。一族でを貫きました

 

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