小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

19 広重ぶるう 梶 よう子(2022)

【あらすじ】

 江戸の定火消屋敷の同心の子として生まれた重右衛門は、幼いころに描いた絵が周囲から褒められたのが忘れられない。歌川豊国への入門を断られると歌川豊広に入門し、師と自分から一文字ずつとって歌川広重と名乗る。しかし役者絵、美人画に手を出すも、評判は全く振るわない。30代になっても、妻の加代に貧乏を強いる日々が続いている。

 

 そのころ風景画で有名な「画狂人」葛飾北斎が、見たことのない「青」の顔料を使って、富士を題材に連作で描くことを知る。懇意の版元、岩戸屋喜三郎の伝手で手に入れた、べルリンでつくられた「ぷるしめんぶるう」、通称「べ口藍」を一目見ると心が奪われる。どこまでも抜けていく空の色、紺碧の空の色と捉えることを思い立ち、作画の方向性が定まる。

 

 べロ藍を使って描いた江戸の空の色。版木師と「べロ蓋」のぼかしの手法を研究してものにした広重は、保永生から「東海道五十三次」の画題を依頼される。べ口蓋をたっぷり使った55作からなるこの連作は大当りを取って、広重の名を初めて江戸に轟かせる。

 

 不遇の時代から抜け出した広重に、70歳を超えてなお創作活動を続ける北斎が訪れた。北斎は「おれとおめえさんとは同じ景色を見ても、まったく別な画になるんだよ」と非難する。名所を描いて版画にする先駆者の北斎の言葉に、広重は「まことの絵描きとは何か」と悩む。

 

 糟糠の妻、貧乏時代から支えてきたお加代が急逝する。そして死後、お加代が版元の喜三郎に、そして師匠の豊広に対して、広重に知られずに尽す姿勢と将来の成功を信じる想いを知る。

 

 

  

 東海道五十三次日本橋」(ウィキペディア

 

 ところが広重の下に、「うわばみ」のお安が押し掛け奉公でやってきて、自然とそういう仲になってしまう。言いたい事をぽんぽんと言うお安に対して、名を高めた広重の居場所はなくなる。自然、何も文句を言わずにじっと耐えていたお加代を思い出す日が続く。

 

 そんな折、一番弟子の昌吉が若くして労咳で亡くなぅた。弔いが終わった後、彼の母は夜具の中で昌吉が描いたという画の束を見てほしいと渡す。命を削りながら描いた百枚余の画。その中で、たった一枚だけ水茶尾勤めの若い娘が描かれており、おすみと記されていた。

 

 感傷に浸っていた広重だが、義弟の僧侶・了悟がその本職を忘れて色の道に踏み外してしまい、不義をした相手方へ五十二両と二分を払わないと、姪にあたる養女お辰を売り飛はすと言われてしまう。曲がりなりにも士分の広重は、それまで手を出さなかったご法度のワ印(わいせつ画)を描く事になるが、元々風景画は得意でも人間、それも女を描くのが不得手で、あの手この手を使って取り組んでいく。

 

 重右衛門は、歌川豊国と合作の「双筆五十三次」で大当りをとる。しかし重右衛門には、描き残した江戸の風景が脳裏に次々と浮かぶ。その時、江戸は安政の大地震に襲われ、街は瓦解してしまう。

 

 

 *「広重ぶるう」の1つ。「京都名所之内 淀川」(ウィキペディア

 

 

【感想】

 美大出身の作者梶れい子が、葛飾北斎菱川師宣に続いて、今回は同じ浮世絵画家の歌川(安藤)広重(安藤重右衛門)を取り上げた。「北斎まんだら」は北斎よりもその娘や孫に焦点を当てたため取り上げるのを断念したが、広重に対しては本人に正面からぶつかった。江戸っ子気質が旺盛で、絵師としてなかなか日の目を見ないが、年齢を重ねても絵師を諦めることができずに、「芸のためなら女房も泣かす」ような前半生を描いている。

 作者は広重を北斎とクロスさせるが、「富士山などのモチーフが先にあって風景を描いたのが北斎。それに対して広重は風景の中に何があるかを考えた」と分析する。富嶽三十六景の中の代表作に象徴される「神奈川沖浪裏」の、その景色を切り取った北斎に対して、広重は景色に人を加え、季節と時間の移ろいを描いて・そして物語を作り上げた。特に雪の少ない静岡は蒲原の宿を雪景色としたのは広重の創作力を見せつけることになり、作者の目の付け所が光る。

 

 *東海道五十三次「蒲原」(ウィキペディア

 

 しかし個人的に思うのは、北斎はその後「富嶽百景」というなんとも酒脱な、平安時代の「鳥獣戯画」のような先祖帰りした画風を思わせる絵も描いている。求められて描く絵でなく自らが欲する絵。それが「名所画などお前にくれてやる」とのセリフになったのかもしれない。

 2万点を超える作品を残した北斎。対して広重は、「ワ印」や天童藩の依頼による200枚の肉筆画など、浮世絵だけでない、お金のために描く姿を記した。しかし安政の大地震という「天からの啓示」をきっかけに、本当に描きたかったのは「江戸百景」だと知る。先だった弟子を思いながら創作に取り組む姿を描くのは、広重らしい人生の終焉を想像するのと同様、作者の見事な力量を感じる。

 印象派の画家や、アール・ヌーヴォーの芸術家らに影響を与えたとされる「ヒロシゲ・ブルー」。しかし本作品の中では、そんな後世の評価や影響など全く気にしない、江戸っ子気質の広重が、生き生きと踊っている。

 

藤沢周平が世に出た最初の短編「溟(くら)い海」は、北斎から見た後輩、広重への心の中の葛藤を描いています。

 ちなみに来年の大河ドラマべらぼう」の主人公で浮世絵の版元の蔦屋重三郎とは、少しですが付き合いがあったようです。

 

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