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【あらすじ】
伊藤若冲こと枡屋(伊藤)源左衛門は、京・錦小路の青物問屋「枡源」の嫡男として生まれる。23歳の時に父を亡くし家督を継ぐが、極端な人見知りのため「枡源」の商いは2人の弟の任せ、自室に籠もって絵を描く生活を送っていた。
嫁を貰えば家業に目を向けると、豪農の娘お三輪を嫁に迎えるが、「枡源」を取り仕切る母お清にいびられ、慣れぬ京の老舗問屋で居場所もない。一緒に叱られる源左衛門の妹お志乃は、お三輪の実弟の弁蔵(後の市川君圭)を呼び寄せ「枡源」で働かせるが、お三輪は厳しい生活に耐えきれず、店の土蔵で首を括って自死をする。弁蔵は姉を死に追いやった「枡源」と源左衛門を憎み、店を飛び出した。
お三輪亡き後、敢えて自死した土蔵が見える部屋に籠もる源左衛門。美しいものだけを描写するのが主流であった絵画の世界で、穴の開いた糸瓜や、枯れた茎の上を這う蝸牛を描く源左衛門の絵に、お志乃は亡き妻へ正面から向き合う兄の思いを感じる。
禅の師であった相国寺の禅僧大典顕常は、源左衛門に「大盈若沖(大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる)」を由来として「若冲」の号を与える。世俗と関わらずに一心不乱に作画に埋没する若冲は、次第に京洛の絵画界で名が知られるようになる。中でも大典顕常の依頼で相国寺に収めた「動植綵絵」や、鹿苑寺に収めた「大書院障壁画」は代表作となった。
ある日、源左衛門は自分の絵画にそっくりの絵に出会う。そこには「若冲居士」の印まで捺されている。その絵の腕前は見事で、贋作ではなくとも絵師として世に認められる画力を持っていた。これは亡き妻の弟、弁蔵改め市川君圭が描いた「若冲」の贋作だった。その見事さに若冲は、自らの領域である画の世界に踏み込んできた君圭の挑戦にも見え、そして追い込まれていく気持ちを覚えた。若冲は市川君圭に対抗するために、独自の画法を求めていく。
市川君圭が贋作容疑で京から追放されたあと、託された子の晋蔵から若冲が教えた描き方にそっくりの画を見つけたと報告を受ける。まだ幼い晋蔵に対して升目に点描を塗るような画法で、象を中心に様々動植物が描かれていた。その画「鳥獣花木図屏風」を見て、若冲は市川君圭の手になるものと確信する。画料は廉価なもので鮮やかさは足りず、きめ細やかも若冲には足りないが、若冲の指向を明らかに先取りして描かれたもの。市川君圭との相克は、最初は独自の画法を歩む動機となったが、お互いに刺激し合い、同じ指向に収斂する過程であった。
若冲は84歳まで生きた。そして葬儀のあと、若冲の画に対して安く買おうとする谷文晁に対して、若冲の画はそんな安いものではないと抗議したのは、市川君圭だった。
*贋作疑惑のある出光美術館所蔵の「鳥獣花木図屏風」(上)と、静岡県立美術館所蔵の「樹花鳥獣図屏風」
【感想】
若冲の生存当時は京洛で名を高めていたが、その後しばらく名前を忘れさられたあと、西暦2000年に開かれた没後200年の大回顧展で大ブレイクした。それ以前から注目していた作者の澤田瞳子(作家澤田ふじ子の娘)は「この前まで近所で路上ライブをやっていた人が、いきなり日本武道館に行ってしまった感覚」と、微妙なファン心理を表現している。
完成された美、生命力を感じる題材が描かれるが、若冲は「生あるものには必ず死がある」として、その中にある美を表現した。そんな美的感覚が若冲にどのようにして生まれたのかを作者なりに、時には史実と変えて描いた。
本作品では若冲の義弟にあたり、生涯に渡って若冲と相克を交える市川君圭は実在の人物らしいが、若冲と縁戚関係はない(そもそも、若冲は結婚した履歴がない)。そんな人物を配して若冲の人生観や創作意欲などを、作者は導き出している。その中でも贋作疑惑のある「鳥獣花木図屏風」を作者なりに「解明」して、1万を超える方眼に動物たちを、隈取りを施しながらグラデーションで描くという特異な技法「白象群獣図」を導き出した。これは西陣織の技法から発想を得たとされているが、その題材と共にそれまでの日本画とは一線を画すもの。
人付き合いが苦手で作画に没頭したと言われる若冲だが、唯一朋友として厚誼を結んだ池大雅や、与謝蕪村、丸山応挙、谷文晁との交流も触れている。また最近の調査で解明された、商売敵の五条通の青物問屋が錦市場を閉鎖に追い込もうと横槍を入れられると、奉行所と折衝を行ったり町衆と協議を重ねながら、錦市場が閉鎖されないように、と世俗の塵にまみれながらも創作を続けた様子も描かれている。
但し若冲の残した作品は余りにもそれまでの日本画とは隔絶して、人付き合いなく孤高で作画を続けたように感じられる。その点を史実にはない「妻」と「義弟」を補助線にして、新たな若冲像を描き切った。
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